2008年01月01日

小説 『邪眼は月輪に飛ぶ』

書店で目に付いた藤田和日郎の『邪眼は月輪(がちりん)に飛ぶ』を読む。


邪眼は月輪に飛ぶ
藤田和日郎


『うしおととら』世代(現22〜28歳くらいか?)にとって、藤田和日朗は神様的存在だ。
綺麗な絵ではない。しかし、そのクセのあるペン筋は、その先に藤田を見る確かな媒介となる。
『うしおととら』で藤田の世界観は半分完成されている。
人と科学、妖怪と自然。二元対立でないのはもちろんのこと、
ラスボスと言っていい白面の者との戦いで示されるテーマは、共存の作法を示す。

(ちなみに『からくりサーカス』については全部を読んでいないのでここでは触れない。)


妖怪への愛着は、彼に通底している。
未知のもの、恐怖、制御できないもの。そういったもののメタファーでありながら、
対峙するのでも、操作するのでもなく、ただ開かれる。


だからこそ、白面の者も『邪眼は月輪に飛ぶ』のミネルヴァも、読者は憎めない。
藤田は決定的な対峙・対決を拒否する。
最も凶悪と思われていた敵が、最も恐れ、最も愛したものが何かが最後になって示される。
僕達はそこへの共感を通して、彼らが実は「同じ」だったのだと知る。

ミネルヴァが守ろうとするものは、「最愛の妻」だ。
しかしその守備行動こそが人々の不幸の元となる場合、人々にどんな選択があるだろう。
そして、実は人々こそが「ミネルヴァ」だったと知った時、
ミネルヴァなき後で、それに対しどんな処方箋があるのだろう。

物語は入れ子構造だ。
僕達が彼の者に対していた感情は、本当は自分に向けられるべきものだったと知る。


ここから余談(メディア批判)だが、こんなシーンがある。
ミネルヴァというのは、目が合っただけで見たものが死に至る「凶悪」なフクロウだ。
このミネルヴァが東京を飛び回るところから悲劇は始まる。
そして、それを助長するのが、メディアだ。
彼らはあろうことか、その姿を電波に乗せてしまい、テレビを通して
多くの国民が死ぬ。
(二度目に読むとこれが直接的描写以上の強烈なメタファーだと分かる。)

このシーンを読んだ時、本当に腹が立った。現実のメディアそのものだと思った。
そして、僕は心からメディアが嫌いなのだと思った。
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小説 『白夜行』

東野圭吾『白夜行』感想。
900P近い長編小説。だんだんこういうのも一日で読めるようになってきた。
昔はすぐ挫折してたからなあw

あらすじ。楽天ブックスから。
1973年、大阪の廃墟ビルで一人の質屋が殺された。容疑者は次々に浮かぶが、結局、事件は迷宮入りする。被害者の息子・桐原亮司と、「容疑者」の娘・西本雪穂―暗い眼をした少年と、並外れて美しい少女は、その後、全く別々の道を歩んで行く。二人の周囲に見え隠れする、幾つもの恐るべき犯罪。だが、何も「証拠」はない。そして十九年…。息詰まる精緻な構成と、叙事詩的スケール。心を失った人間の悲劇を描く、傑作ミステリー長篇。

面白い、が、ストーリー的に驚きはない。

亮司と雪穂の救われない物語。
似た境遇を持つ二人がお互いの人生を影で支えていく。
しかしそのやり方は文字通り犯罪的なもので、
人には気付かれず、証拠を残さない。
そして自己犠牲的でもある。

ストーリーはある段階から反復的な内容となり、それは最後まで続く。
これからどんな事件が起こるか予想できるし、
「亮司と雪穂が影で動く」ことが読者に前提とされていくので、
色々な事象が少しずつ辻褄が合うように説明されていく。
(それはストーリーが予定調和になることでもある。)

しかし、影でどんなことが起こっていたのかを読みながら想像するのは楽しい。
亮司や雪穂の心情描写は一切ないので、全ての真相は推測になる。
何故、東野は亮司や雪穂の心の中を隠すのか。僕はこの方法論は正しいと考えている。
彼らは孤独であり、誰にも理解されず、影で結合している。
彼らの周囲の人間が彼らのことを分からないように、読者にも分からないのだ。
この世界には、二人に共感する人間など存在しない。
だからこそ、二人の思いは、直接的には読者に伝わってはならない。
二人の気持ちを描かないという方法論こそが、二人の孤独を象徴している。
直木賞の選評では内面を描かないことを批判されているが、
個人的に言えば、内面が描かれていたらこの小説にそこまで価値なんてなかったと思う。


さて、最終的な亮司の選択にせよ、その後の物語にせよ、推測すべきことだらけだ。
東野圭吾のファンサイトに「白夜行に残された謎」として色々な解釈が書かれている。
また、こちらの時系列も参考になる。

ここで取り上げたいのは色々な犯罪の真相ではなく、亮司と雪穂の関係性について。
二人は、どのような関係だったのか?
TVドラマでは恋愛関係にあったことが明かされるらしいが、
小説では、二人の直接的な関係について触れられることはない。
唯一触れられるのは最初の事件が起こる前に図書館でよく一緒にいたということだけだ。

二人は男女として愛し合っていたのか?これは自明ではない。
恐らく、
互いの境遇に対するシンパシー、仲間意識、大切な存在だという認識はあっただろう。
しかし、それ以上のことは分からない。
亮司の献身ぶりや、ラストシーンで彼がした選択、
射精困難な彼が友達を助けるために精液を採取できたという事実などは、
亮司の雪穂への愛を示しているように思う。

けれど雪穂の方が分からない。
彼が亮司に対する愛情を持っていたのかどうかすら、分からない。
あのラストだと、全てをひっくるめて彼女の思惑で進んでいたという解釈だって出来る。
(もちろん、亮司のことを愛していたって、ラストの台詞は出るわけだが。)

二人の関係は、共生関係であることは確かだが、その関係性は対等とは思えない。
そしてそのことに二人とも気付いている。

この小説を貫く悲しさの根本は、二人の不遇な環境・状況と同時に、
このアンバランスにあるように思う。
二人は夜にいる。けれど、片方が片方の太陽になったのだ。
闇夜を照らされた少女は救われた。

では、太陽になった少年は救われなかったのか?
そうじゃないだろう。彼だってきっと、少女が救われることで救われていた。
これは僕の希望。

しかし言い換えれば、どちらも救われないのだ。
そこには本当は太陽のような闇しかないのだから。
共感は孤独を和らぎこそすれ、根本的な解決を生まないのだから。
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小説 『秘密』

東野圭吾『秘密』感想。

まずあらすじ。Amazonより。
妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。その日から杉田家の切なく奇妙な“秘密”の生活が始まった。映画「秘密」の原作であり、98年度のベストミステリーとして話題をさらった長篇、ついに文庫化。

この小説は東野圭吾の「非リアル設定のリアリズム」を
味わうという点では優れていると思う。
『秘密』『変身』『パラレルワールド・ラブストーリー』は
東野圭吾の「意識」に関する3部作と言われている。
これらのような一つのSF的特殊設定に対し、
登場人物たちの心情をリアルに描くというのは、
よくある手法だが困難な手法で、著者の力量が如実に繁栄されるスタイルだと思う。
で、東野はこの点については成功していると思う。つまり、想像力がある。
あたかも実際にそういう事象が起こった家族を取材したかのよう。

最初にこの小説のコンセプトを友達から聞いたとき、
「セックスはどうするの?」とすぐに聞き返した。
そしてこの当たり前の疑問から東野は物語を作ったらしい。
小説の中でセックスは重要なウェイトを占め、夫と妻の関係性を何よりも強く反映する。
ここら辺の進め方は面白いと思う。
物語は若さを手に入れた妻の変質と夫の戸惑いを中心に描かれる。
新しい青春とそこから始まる人生を手に入れた妻はそれを謳歌していくが、
夫はそれに対して距離感を感じていく。
その距離感は互いの双方向性になる。(一番の原因はセックスレスだと僕は思う。)
その心理描写や夫が取る行動はとても理解できる。
情けないし倫理的に批判されるだろう行動もあるが、とても理解できる。
(女性の感想を読んでいると、夫への理解が少ない気がする。
 この話の感想は男女の差が大きい印象を受ける。)


しかし、この小説を僕は好いていない。
僕はこの小説で何も感動を得ることが出来ないから。
この小説にあるのは、リアリティだけなのだ。
ネットで感想を読むと、よく「ラストに感動した」とあるが、理解できない。
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小説 『魔王』

伊坂幸太郎『魔王』を読む。

途中まで読みながら、何度も投げ出そうと思った。
主人公の二人の兄弟の描写が気に入らなかったからだ。

あたかも、憲法改正に反対することが正しいような。
憲法改正に賛成することが、熱狂の中で真実が見えていないような描写だ。
集団で同じことを考えることがあたかも悪いことかのような描写だ。

もし、このまま左翼マンセーで終わる小説ならクソだと思って読んでいた。
けれど、描写されている憲法論議は、左側が言いくるめられることが多く、
これだけに期待して読み進めた。つまり、こういうことなんじゃないかと。
この本のテーマは憲法改正ではない。
その証拠に、犬養が独裁者になっていったりすることはないし、
犬養に対してどちらかというと肯定的に描かれている。


「魔王」とは誰のことか?もちろん犬養のことではない。
大衆である。
そしてその中でも悪質とされているのが、
考えることによって他者と違うことに優越を覚える類の大衆だ。
そういう人間は考えることが自己目的化し、自己目的化したものは大抵形骸化するので、
思考の検索(書物やネットから)で終わってしまう。結局思索しないのだ。


恐らく伊坂幸太郎は護憲論者なのだろう。作家は主人公に自分の思想を投影するものだ。
しかし、彼の最も言いたい事は次の言葉に集約されている。
(ちなみにこれは小林よしのりの思想でもある。)
私は、憲法改正が必要だと認識している。憲法は改正すべきで、武力は持たなくてはならない。ただ、この日本が独立した一つの国として、確固たる意志と誇りを持つためには、自分の投票に対する意味と責任を理解すべきだ。逆に言えば、もし国民が国の未来を必死に考え、その上で、一切の武力を放棄し、無防備こそが最大の防御である、と方針を定めるのであれば、それも正しい選択だ。

伊坂は、憲法改正に賛成か、反対かということに重点を置いているのではない。
考えること、そして自らの行動の意味と責任を理解することを強調しているのだ。

彼は小説の中で憲法改正反対を訴えたいのではない。
人々が雰囲気で動き、それが大きな止められない流れとなることを危惧しているだけだ。


さて、彼の主張は正しい。
正しいが、あまりに議論が掘り下げられていないし、題材がおかしい。

第一に、戦後60年に渡り、日本を支配してきたのは左翼・サヨク思想である。
全体主義は、ナショナリズムと一致しない。必要条件でも十分条件でもない。
こんなことは常識も常識だし、伊坂も分かっているとは思うが、
彼の小説はここを誤解させる。
小説で描かれる日本人の狂気は、実際には存在しない。
(韓国や中国や欧米では存在している。)
「ナショナリズムが狂気を齎す」といった、今の日本では考えにくいことを言ってどうする?
こう言ったら、「考えにくい」という意見こそが危険なのだ、とでも言うのだろうか。


かつて、従軍慰安婦の強制連行にせよ、南京大虐殺にせよ、
疑問を呈するだけで大臣が罷免される時代があった。
今ではボロクソに言われてるゆとり教育が持て囃された時代があった。
北朝鮮は楽園で、拉致なんてもっての他と考えられた時代があった。

ムードだよ。左翼こそ、ムードで勢力を広げ、反論を封じ、
疑問を呈したものにを粛清してきた。
左翼・サヨクが進歩的で、知識人のマナーだと思われてきた。

それを覆してきたのは、保守派の地道な努力じゃないか。
ムードが世界を包んでも、それでも「自分の考えを信じて、対決して」きたのだ。
80年代後半以降は、左翼が保守派に論破され、世間に受け入れられていく歴史だった。
(それと同時に個人主義、環境主義、偏った平等主義、生命至上主義などの
 サヨクが勢力を伸ばしてきたのも事実だが。)


現在の日本に過激なナショナリズムなんてない。
それどころか、普通のナショナリズムさえ怪しい。
そんなものが人々にあるのなら、とっくに憲法改正されているだろう。
蔓延するサヨクに対する保守派の抵抗、これが現在の状況だよ。
保守派は押され気味。


第二に、憲法改正について行われている議論が、浅い。
左も右も、数十年前からある議論じゃないか…。
これがテーマではないと後書きで作者が言っている以上、少々は目を瞑るが、
それにしてもこのレベルの議論じゃあ、「考える」というテーマ自体が揺らいでしまう。
思考停止に見える。
ちなみに、憲法改正は段階的に行われる、とか、アンケートが仕組まれているとか、
もう、左翼の主張そのものだよ。
(というかそもそも、アンケートを操作するのは昔から左翼の専売特許である。
 ネットを調べたらたくさん例が出てくると思う。
 左翼のする「アンケート」批判は、自分にそのまま返ってくる。)


第三に、熱狂は悪ではないし、大多数が同じ意見を持つことも悪ではない。
そして、マジョリティーが正常で、
マイノリティーが熱狂しているという状況の方が現実にはずっと多い。
(憲法改正なんてその典型で、議論をじっくり見てみると良い。
 左の連中の思考停止ぶりが分かるだろう。)

ファシズムとか、全体主義とか、熱狂とかいう言葉は、マジョリティ批判に良く使われる。
これらの言葉が卑怯なのは、反論不可能だからだ。
しかし、「僕はこう考える」という人が集まって大きな動きとなるのは間違いではない。
それに対し、全体主義的とか言っても仕方ない。それは民主主義の批判に近い。
もちろん、マジョリティが間違うこともあるだろう。
(ちなみに、戦後間違いとされているものはほとんど左翼・サヨク政策じゃないか?)
しかし、その批判は、理屈でなされるべきなのだ。
「皆が同じ方向を向いているのが怖い感じがする」とかさ、
そんなことは一言で言えばどうでもいいんだよ。
往々にして「マジョリティであること」そのものへの批判であって、無意味なのだ。
異論を許す空気はもちろん必要だが、小説からはズレを感じる。
もし、皆が憲法改正に反対している状況でも、同じ主張をするのだろうか。


繰り返すが、人々が雰囲気で動くのを危惧するのは正しい。
しかし、そもそも大衆は雰囲気で動くのだ。
そんな中、それでも人々には常識があるし、理想だってあるのだ。
間違っても、
「マジョリティーは雰囲気で動いている人たち、
 マイノリティーはよく考えている人たち」といった見方はすべきではない。


恐らく、題材が憲法改正じゃなければもっと楽しめただろうな。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本 『下流志向2』

『下流志向』感想。


(2007/05/01)「下流志向1」の続きです。

著者の主張をまとめると次のようになる。
・経済至上主義が若年者に「原体験としての消費」を刷り込む。
・結果、時間性のある生産主体ではなく無時間性を特徴とする消費主体が形成される。
・消費主体は「快・不快」自体を硬貨として扱い、正当な等価交換を主張する。
・結果、小学1年生から「この授業は如何に自分のメリットとなるか」という視点で
 「勉強は何の役に立つのか?」などと質問してしまう。
・しかし、小学生はそもそも勉強の価値を知っていない。また、大人から説明も出来ない。
・学級崩壊は、小学生の不快表象であり、「努力的な」無気力である。
・労働においても消費主体が先立つと、「評価の低さ」ばかりが目立つ。
・「快・不快」との即時的な等価交換だけでは労働は成り立たない。
・このような消費行動によって自己選択的に勉強や労働から逃避した結果、
 学力が落ち、労働市場から疎外される。
・その上、その結果を好ましいものと考え、「自己決定の価値」を信じる。
・消費主体化した人々は学力と生産力の点から下流層へ転落する。
・下流層ほど、自己決定と自己責任を叫び、他者を排し、孤立化しやすい。
・上流層は時間性を持った生産主体であるため、
 相互扶助の価値を信じ、セーフティネットを整備する。
・各々の層は「消費主体・生産主体の価値観」を再生産し、階層は固定化する。


この本の特質は、主体性を生産主体と消費主体に分け、
その特徴を時間性の有無という点で定義づけたことにある。
社会学的な明らかな間違いもあったりするが
(例えば現在のニートは自分から望んでなった者の方が少ないと言われている)、
全体的な流れとしては正しいと思う。
簡単に言えば、現代の子どもは、小さい時から注文の多いクレーマーなのだ。
自分を得する何かとの交換でなければ束縛に耐えられない。
そして一番の問題は、失うこと、分からないこと、孤立すること、
そういったことを肯定的に受け入れてしまうことだ。
「正当な交換」という自己決定を愛してしまうことだ。


それにしても保守派的な意見だなあ。
社会学やってる人ってリベラルが多いけど、ザ・保守派じゃないか。
「学問の価値は学問を始める段階では分からない。
 しかし、それでも(だからこそ)学問を始める」という選択に価値を置いたり。、
生産主体は「ひとまず分からないけどやってみよう、何か変わるだろう」という選択が出来る。

一方の消費主体は主体の変化を描けない。(もしくは「努力的に」描かない。)
消費主体は、「最も少ない労働で、最も大きな利益を出す」ことを最高善と見做す。
ニートがライブドアの堀江を賞賛する心性だ。彼らにとっての賢い生き方。
自己決定・自己責任論、自分探しイデオロギーが、
捨て値で子どもたち、若者たちの未来を売り払う。
しかも本人達はそれを喜んで受け入れるという構造だ。

ここらの分析は82年生まれの若者としてとても理解できる。


ただ残念なのは、この本では現状の分析に終わって処方箋が示されていない。
消費主体ではなく生産主体として
子どもを立ち上げるのはどうすればいいのかということが書かれていない。
僕も分からない。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

東野圭吾の次ということで、村上春樹を読んだ。しばらく現代作家で小説慣れ期間。

読んだのは、以下の8冊。

『風の歌を聴け』(1979年6月)
『1973年のピンボール』(1980年3月)
『羊をめぐる冒険(上)(下)』(1982年8月)
『ノルウェイの森(上)(下)』(1987年9月)
『国境の南、太陽の西』(1992年10月)
『スプートニクの恋人』(1999年4月)
『海辺のカフカ(上)(下)』(2002年9月)
『アフターダーク』(2004年9月)

読んだ順番は年代順ではないのだが、
こう並べてみると村上春樹の辿った思考が見えてくる。
彼の持ち出すテーマは、作品によらず通底しているため、
感想は作品ごとではなくテーマごとに書いてみようと思う。

村上春樹の作品の流れを極めて大雑把にまとめておくと、

青春三部作『風の歌を聞け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』
テーマは青春と無関心(アパシー、デタッチメント)+喪失。
 ↓
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
過渡期。
 ↓
『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』『国境の南、太陽の西』
テーマは喪失と虚無。
 ↓
『ねじまき鳥クロニクル』
過渡期。
 ↓
オウム2部作『アンダーグラウンド』『約束された場所で―underground 2』
ノンフィクション。
 ↓
『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』
テーマは共感(シンパシー、コミットメント)。
 ↓
『アフターダーク』
過渡期。

繰り返すが物凄く大雑把だ。
文体や主人公の人称、そしてメタファーの強度という視点でも分類できる。

一番好きなのは、『海辺のカフカ』。
一番読みやすく完成されているのは、『ノルウェイの森』。
一番一般ウケしやすいと思うのは、『国境の南、太陽の西』。
ちなみに、ファンの中で人気が高いのは、
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や
『ねじまき鳥クロニクル』なのだけど、まだ読んでいない。

それにしても『ノルウェイの森』は大分前の作品なんだなぁ。
posted by りお at 02:02| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『明日、君がいない』

素晴らしい映画を観た。

『明日、君がいない』。

パンフレットのイントロダクションにはこうある。
 爽やかな風が吹きぬけ、木の葉が陽光にきらめきながらそよぐ。生徒たちの姿が、教室や廊下、グラウンドにあふれていく。いつもと同じ、ハイスクールの朝の光景。今日もいつもと変わらない平凡な1日を過ごすかに見えた6人の高校生たち。だが、ひとりひとりは、人に打ち明けられない悩みや問題を抱え、押し潰されそうになっていることが、次第に明らかになっていく。やがて、午後2時37分に、その悲劇は起きる。はたして、自ら命を絶とうと決意するのはだれなのか・・・。

これが単純な概略だ。自殺というエンディングが予め知らされた上で、
そこに至る過程を見る映画。


この映画について僕の尊敬する前田有一は以下のように述べている。
とても分かりやすい説明なので、少し長いが抜粋してみる。
(前略)

登場するのは主に6人の若者で、これがまたどいつもこいつも問題を抱えている連中ばかり。高額所得者の親を持つ兄妹は、しかし教育面でのプレッシャーに押しつぶされ気味。スポーツ万能でモテる少年は、一見勝ち組街道まっしぐらに見えるが、他人を平気で蹴落とすいじめっ子。

(中略)

そのほかもゲイだったり軽度の障害にコンプレックスを持っていたりと、いつ自殺してもおかしくないような危なげなティーンが次々と登場する。そして、当初明らかになるそうした悩み、問題点とは別の隠された一面をもつ人物も中にはいる。

ひとつのシークエンスは必ずこのうち誰かの目線で進行するが、ひょんな事から(たとえば廊下で別の誰かとすれ違うなど)突然スイッチし、別の人物のそれになったりする。ときには同時に時間軸もわずかにずれ、過去に戻ったりするのでめまぐるしい。しかもその合間には、彼らをインタビューした風の映像まで入る。

こうしたスピーディーな展開と、「いったい自殺するのは誰なのか」「どんな原因で、どんな方法で死ぬのか」という、一種の謎解きめいた興味によって緊張感は途切れることが無い。無意識のうち、すべてのシーンにそのヒントを探してしまう。みていてとにかく"面白い"。

ただ、こうした技法面はまだまだ荒っぽくもあり、しょせんは新人監督といえなくもない。しかし、この映画にはもうひとつ恐るべき点がある。それは、この映画の語るテーマについてだ。

そもそもムラーリ・K・タルリ監督がなぜこの話を考えたかといえば、長年の女友達が突然自殺したことにショックを受けたことに端を発する。その後、自身も自殺を決意するにいたったその経験を、彼は完璧にこの一本に叩き込んだ。私が最も高く評価するのはその点である。

(後略)

カンヌで絶賛されたこの映画の監督は、撮影開始当時19歳だった。
ただし、この映画は決して、「19歳だから撮ることができた、
若さゆえの感性」では決してない。
人は何故自殺するのかという重いテーマを、
友人の自殺を経験している監督が描くから心を揺さぶるのだ。
(上記抜粋で後略した自殺というテーマについては、
 エントリーを改め、自分の言葉で語りたい。)


観終わった後、切ないだとか、悲しいだとか、衝撃的だとか、
もちろんそういう感情もあるのだけれど、そうじゃない。
観客は映画を観ることで、
友人の自殺を止められないということがどういうことなのかを知る。
もしも友人が自殺したら自分が何を考えるかを知る。

たった一つの救いは、この映画が存在するというメタ的な事実だけだ。


数少ない僕の映画人生だけれども、ベスト1かもしれない。
心から素晴らしい。
posted by りお at 02:01| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『花とアリス』

『花とアリス』がすごくイイ!

世の中に素晴らしい映画はたくさんあるが、
「その中でDVDを買って家に置いておきたい」映画は少ない。
岩井俊二監督の『花とアリス』はそういう映画だ。

最初の5分間で映画の性格付けがなされる。
あ、こういう映画なのか、と分かる。
ほのぼのというのも違う、かわいいというのも違う、切ないというのもずれている、
けれどそこには、ティーンエイジが持つ危うい綺麗さが表現されている。
僕はこの5分間だけでこの映画を好きになってしまった。


こういう年代が僕にもあった。誰にでもあった。
恋に対する憧れとか、友達との間の軽い歪みとか、
それらに初めて接する戸惑いとか。
そういったものが敷き詰められて、主人公の二人を包んでいる。


ハートのエースのくだりで描かれる小さな奇跡や
三角関係の外側の物語(家族の話とか)の重みもでしゃばり過ぎず、
オシャレに花を添えている。
少年が最後に出す答えも、少女達が出す答えも、救いがある。
そしてその救い、というかハッピーエンドをすんなり受け入れさせてくれる。


友情と愛情どっちを取るの?なんてテーマが、世界の全てになってしまうような。
誰もが逡巡している。答えを出せない。
そんな年代の流す涙を嘘っぽくなく描いた岩井監督をとても評価したい。
原作があるらしいが、僕はこの映画の長所はストーリー以上に演出にあると思う。


蒼井優の純真無垢なイメージもいいが(『ハチミツとクローバー』のはぐのような)、
この映画の「不安定な時期の快活な少女」もいいなあ。こっちもピュアさは必要だけど。
posted by りお at 01:58| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『ストリングス 〜愛と絆の旅路〜』

『ストリングス 〜愛と絆の旅路〜』を観に行く。

久しぶりの六本木ヒルズ。落ち目だという噂があったが、
ゴールデンウィークということもあってか案外にぎわっていた。

この映画は、デンマークで作られた操り人形による人形劇である。
一体の人形に付き、4〜5人のプロの人形師がついて人形を動かし、
90分ほどの映画の撮影に23週間がかけられた。


この映画の面白い点は二つある。
一つは、人形劇のクオリティというものを知ることが出来ること。
人形劇は、子どもだけが楽しむものではなく、大人の鑑賞にも耐えると実感できる。
「生きているように見える」と言ってしまうのは簡単だが、
それ以上のものがあるからこそ、人形劇には価値がある。
生身の人間ではなく、人形だから生まれるエネルギーや純粋性がある。
造花が生身の花に優越する点があるように。

二つには、人形の糸をそのままCG処理せずそのまま残すことで、
糸を物語に必要な道具として用いたことである。
例えば、登場人物は自分の頭から伸びている糸を切断されると絶命する設定である。
映画はまず最初に現実の人形師たちを映し、彼らから伸びる糸を映す。
その糸を上から下に辿り、人形が映される。
つまり、この映画は「人形劇」であることを予め明示している。
糸は人形達にとってメタファーであると同時に、物理的な糸でもある。

このような糸は何を象徴するのだろうか。
「糸による束縛」は映画で何度も表現される。それは運命であり不自由である。
と同時に、愛し合う姿は糸が絡まりあう姿に、絶命は糸の切断に、
命の誕生は人形への糸の接続に擬えられる。

つまり、こういうことだ。
束縛こそが、人の生命力と同値であり、
社会や他人との連帯という不自由こそが、人の生きる意味である。
まさしく保守派的な思想で、とても共感できる。
不自由さと束縛は愛や絆であり、その切断は社会的な死を意味する。

では、ラストシーンはどうだろう?
僕はあのシーンでこの映画の主題がボケてしまったと思っているが、
様々な解釈が出来る。
一先ず僕はこう言おう。人間ではあのようなことは出来ない、と。
posted by りお at 01:57| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『あるスキャンダルの覚え書き』『ゾディアック』『きみにしか聞こえない』

最近観た映画。

『あるスキャンダルの覚え書き』

映画にはいろんなジャンルがあるが、その一つに
『日常の中で少しずつズレが表面化していく系』がある。
そのような映画では、他のジャンルの映画に比べて人物の心情を追うことが重要だ。
『あるスキャンダルの覚え書き』では、二人の主人公のどちらにも感情移入できる。
ある人は老いたストーカーに、ある人は若い(少しおバカな)女教師に共感を覚え、
追う側に理解を示し、追われる側の恐怖を見守るだろう。

「他者を救っている」という優越感、しかも両者にそれが共有されている状況が、
一人の人間を追い詰めていく。
が、それと同時に、正当化を続ける追う側も、喪失の危険性を膨らましていく。
本当に依存しているのは、どちらかと言えば…。


『ゾディアック』

アメリカの連続殺人鬼、ゾディアック。
wikipediaにはこうある。
ゾディアック(Zodiac)は、アメリカ合衆国の連続殺人者。1968年から1974年のサンフランシスコで警察が確認できた被害者5名を殺害。現在も犯人不明のまま、事件は解決されていない。1990年代には、ニューヨークでこの事件を模倣した連続殺人が発生した。以後ゾディアックは連続殺人の代名詞にもなる。

ゾディアックは、暗号文を警察に送りつけ新聞に掲載させ、指紋を現場に残し、
報道番組に電話で生出演した。
典型的な劇場型犯罪であり、映画の前半は謎解きに費やされる。
当時の人間が怯えながら熱狂したように、映画館の観客にとってもスリリングで楽しい。
しかし僕達は事前情報で「未解決事件である」ことを知ってしまっているので、
最終的に捜査が行き詰ることを知っている。
映画としてはどうオチをつけるのかと思っていたら、
後半は事件を捜査する警察官や記者の人間模様に中心が移っていき、
やはり、捜査が進むスピードは鈍っていく。

けれど、まさにこの密度の低下こそが劇場型犯罪の行く末であって、
映画は正しい。僕達が映画内事件を退屈に思うように、
70年代のアメリカ人も退屈して、飽きてしまったのだ。
そこでは事件ではなく「事件の周辺事態」しか語るべき内容がない。

ちなみに映画では、犯人が誰かをほぼ断定する形で終わる。
これは素直に褒めたい。


『きみにしか聞こえない』

乙一原作小説の映画化。原作とは色々違う点あり。
公式サイトのストーリーの最初を抜粋。
 わたしは相原リョウ、両親と妹と横浜の高台に住んでいる。内気で友だちのいないわたしはケイタイも持っていない。でもある日、公園でおもちゃのケイタイを拾う。翌日、保健室で休んでいると着信音が鳴って、若い男の人の声が聞こえてきた! こうして、わたしとシンヤさんは、つながった。長野でおばあさまと暮らしているシンヤさんは、この春に高校を卒業して、今はリサイクルショップで働いている。すぐにわたしたちは、ケイタイがなくても〈電話〉できるようになる。

テレパシーのような形で会話できるようになった二人は恋心を募らせていく。
「私にはこの人しかいない」という思いは基本的に恋愛の中核となるが、
この二人の恋愛においては、「コミュニケーション可能な人間がこの人しかいない」という、
社会既定性を持っている。
片方には友達がおらず、片方は耳が聞こえない。
脳内テレパシーは「私はひとりだ」という思いを持つもの同士の、共依存を作り出す。

共依存の行き着く先は二つだ。
一つは、「世界にはこの人しか信じられる人がいない」と閉じる場合。
もう一つは、「この人は信じられる。だから世界はクソじゃないのかもしれない」と
開いていく場合。
共依存による信頼穣成が周囲の世界にも適応されること。
これこそが恋愛の効用の一つだろう。

脳内テレパシーは一時間の時差を持って行われる。
ここにはタイムパラドックスの生まれる余地があり、もちろん悲劇回避の物語が生まれる。
手話のシーンはちょっとクドさが残るが、「耳が聞こえない」「口がきけない」という設定は、
「タイムパラドックス物」と組み合わさり素晴らしい演出を生む。これは新しい。
posted by りお at 01:54| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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