2008年01月01日

人生の格言 第1弾

・いい日は幾らでもある。手に入れるのが難しいのはいい人生だ 。
byアニー・ディラード

 

・人生とは、病人の一人一人が寝台を変えたいという欲望に取り憑かれている一個の病院である。
byボードレール

 

・私達はいわば二回この世に生まれる。
一回目は存在するために、二回目は生きるために。
byルソー

 

・人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。
by中村天風

 

・一度だけの人生だ。だから今この時だけを考えろ。
過去は及ばず、未来は知れず。死んでからのことは宗教にまかせろ。
by中村天風

 

・人生は、私たちが人生とは何かを知る前にもう半分過ぎている。
byW・E・ヘンリー

 

・宴会と同じように、人生からも飲みすぎもせず、喉が乾きもしないうちに立ち去ることが一番良い。
byアリストテレス

 

・なんと大洋の美しいことよ!なんと大空の澄んでいることか!点のような太陽!
何事が起ころうと、この瞬間、生きていることでたくさんだ。
byリンドバーグ

 

・10歳にして菓子に動かされ、20歳にしては恋人に、30歳にして快楽に、40歳にしては野心に、50歳にしては貪欲に動かされる。
いつになったら人間はただ知性のみを追って進むようになるのであろうか。
byゲーテ

 

・生きるべきか死ぬべきか。それが疑問だ。
byシェークスピア

 

・人の一生は曲がり角だらけだ。
by山本周五郎

 

・人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。
by中島敦

 

・人生にはただ三つの事件しかない。生まれること、生きること、死ぬことである。
生まれるときは気がつかない。死ぬときは苦しむ。そして生きているときは忘れている。
byラ・ブリュイエール

 

・人はその生涯の40年間で本文を著述し、
これにつづく30年間において、前者についての注釈を付加する。
byショーペンハウエル

 

・人生において、万巻の書をよむより、優れた人物に一人でも多く会うほうがどれだけ勉強になるか。
by小泉信三

 

・人生は退屈すれば長く、充実すれば短い。
byシラー

 

・人生における大きな喜びは、君にはできないと世間がいうことをやることである。
byウォルター・バジョット

 

・人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。
byベーコン

 

・人生の黄金時代は老いて行く将来にあり、過ぎ去った若年無知の時代にあるにあらず。
by林語堂

 

・馬で行くことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。
だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない。
byヘルマン・ヘッセ

 

・人生の半分はトラブルで、あとの半分はそれを乗り越えるためにある。
by映画『八月の鯨』

 

・人生は、ケチな心配事ばかりしているのには短すぎる。
byC・キングスリー

 

・われわれの人生は織り糸で織られているが、良い糸も悪い糸も混じっている。
byシェークスピア

 

・今今と今という間に今ぞ無く 今という間に今ぞ過ぎ行く
by道歌

 

・状況?何が状況だ。俺が状況をつくるのだ。
byナポレオン

 

・たとえ今日負けても、人生は続くのさ。
byメチージュ(米・テニスプレーヤー)

 

・問題なのは人生ではなく、人生に対する勇気だ。
byサー・ヒュー・ウォルポール

 

・人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするなよ。
by小林茂

 

・傷ついたのは、生きたからである。
by高見順

 

・人生は全て次の二つから成り立っている。
したいけど、できない。 できるけど、したくない。
byゲーテ

 

・われわれは現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。
過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。
byアラン

 

・とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ。
by太宰治

 

・人生とは、切符を買って軌道の上を走る車に乗る人には分からないものである。
byサモセット・モーム

 

・貧しくとも、君の生活を愛したまえ
byソロー

 

・乗りかけた船には、ためらわず乗ってしまえ。
byツルゲーネフ

 

・人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない。
by石坂泰三

 

・深海にいきる魚のように自ら燃えなければどこにも光はない。
by明石海人

 

・わたしの人生をわたしはコーヒースプーンで測ってきた。
byエリオット

 

・黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ。
by?小平

 

・私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。
by岡本太郎

 

・登山の目標は山頂と決まっている。
しかし、人生の面白さはその山頂にはなく、かえって逆境の、山の中腹にある。
by吉川英治

 

・人生は、必ずしも思うようになるとは限らない。
by映画『ローマの休日』

 

・私の人生は、一度もリハーサルのチャンスをもらえなかった公演のようなものです。
byアシュレイ・ブリリアント

 

・人生に執着する理由がない者ほど、人生にしがみつく。
byエラスムス

 

・人生とは、二気筒のエンジンで440馬力を出すことだ。
byヘンリー・ミラー

 

・人生はそれを感ずる人間にとっては悲劇であり、考える人間にとっては喜劇である。
byラ・ブリュイエール

 

・世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ。
byシェークスピア

 

・涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない。
byゲーテ

 

・人生は学校である。そこでは幸福より不幸の方が良い教師である。
byフリーチェ

 

・智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。
by夏目漱石

 

・寒さにふるえた者ほど太陽を暖かく感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。
byホイットマン

 

・人生は物語のようなものだ。
重要なのはどんなに長いかということではなく、どんなに良いかということだ。
byセネカ

 

・人生は外国語だ。たいていの人間はそれを間違って発音する。
byクリストファ・モレイ

 

・人間、志を立てるのに遅すぎるということはない。
byボールドウィン

 

・この道より、われを生かす道なし。この道を歩く。
by武者小路実篤

 

・自分が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧きでる。
by高山樗牛

 

・人生は己を探す旅である。
by藤本義一

 

・人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。
しかし重大に扱わなければ危険である。
by芥川龍之介

 

・人生には、全てをなくしても、それに値するような何かがあるんじゃないだろうか。
映画「風とライオン」より

 

・人生は一冊の書物に似ている。
馬鹿者たちはそれはパラパラとめくっているが、賢い人間はそれを念入りに読む。
なぜなら、彼はただ一度しかそれを読むことが出来ないのを知っているから。
byジョン・パウル

 

・人生は、私たち一人一人が、それぞれの目を通して見ている映画です。
そこに何が起こっているのか、ということは大した違いはありません。
それをどのように受け取るかが重要なのです。
byデニス・ウェイトリー

 

・もし、人生に再版があるならば、私は改訂したい。
byジョン・クレア
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人生の格言・名言集

本文なし
posted by りお at 16:40| 人生の格言・名言集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

村上春樹の作品は喪失感・虚無感を抜きにしては語れない。
それは第一作の『風の歌を聴け』からテーマとされている。
以後、僕は「あゆ」を指し、「僕」は小説の主人公を指す。


彼が文章を書く目的は、自分と自分をとりまく事物との距離を確認するためである。
(と物語の主人公に言わせている。)
それは、自己療養のささやかな試みであり、感性よりもものさしを必要とするものなのだ。
芸術や文学ではなく、もっと個人的なものだ。


前の日記に書いたが、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』は
青春三部作と呼ばれており、共通する登場人物も出てくる。
これらの話は、1960年代の後半から1970年代にかけての喪失の物語という点で共通している。

青春とは何か?
それは強い情熱や、淡い恋心や、将来への不安の混じった希望などで
特徴づけられるものではない。(少なくとも村上春樹の青春は。)
次に思いつく青春の特徴は、
大人になることだとか、体制だとか、システムに組み込まれることのアンチ。
しかし、それでもない。アンチは何らかの行動を含んでいて、
例えば全共闘に代表されるような運動とまで行かなくても、
心情の中での反発が存在する。
村上春樹の青春三部作に出てくる登場人物たちは、
そのような反発すら存在しない。

全共闘運動に参加していた連中が、
スーツを着て就活をするようになるのを村上は傍目で見ていた。
アンチはシステムへの従順と実は似通っている。

彼(登場人物たち)の青春とは、無関心である。
アンチすらしない。ただ存在しているだけ。
そこにもちろん人間関係はあるが、何かを生み出すわけではない。
そして、何も生み出さないのなら何かを失うしかないのだ。

登場人物は去ってゆく。もしくは始めから去っていて、
それらの喪失によって、時は止まってしまう。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」
けれど実際の時間は進んでいくので、現実と「僕」の乖離は大きくなるばかりだ。
それに対処する方法こそが、無関心であり、無関心の代償が新たな喪失である。
村上の小説は繰り返しそのことをテーマにしている。

無関心と言う名の青春を生き続ける者たちは、
何らかの新しい喪失を再び味あわなくてはならない。


『風の歌を聴け』ではレゾン・デートル、自己認識という言葉が言語化されて出てくる。
「僕」は繰り返し距離を測ろうとしている。「僕」は二度失敗し学習する。
・「世界を意味づける」という方法では自己は認識できない。
・「自分の行為を何らかの指標で客観化する」という方法では自己は認識できない。


無関心と同じ文脈で出てくるのが「反復」である。
『1973年のピンボール』で著明だが、「僕」は反復に逃避する。

 しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
 永劫性について我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し測ることはできる。
 ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大ではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。

代替可能性(双子というメタファー)と反復によって世界から意味を削り取る。
自分を守るためには「変わらない世界」が必要なのだ。
それが「僕」が選んだ世界であって、
ピンボール・マシーンの「スペース・シップ」はかつて死んだ直子の魂が宿っている。
彼がピンボールと決別した時、双子も去る。


鼠も変わろうとした。鼠は言い、ジェイが聞く。
「どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないんじゃないかってね。違うかい?」
「違わないだろう」
「だから俺はそんな風に嬉々として無に向かおうとする連中にひとかけらの愛情も好意ももてなかった。……この街にもね」
「問題はあんた自身が変わろうとしてることだ。そうだね?」
「実にね」

女を残し鼠は街を去る。僕は心を動かされる。泣きたくなる。

『1973年のピンボール』の最後の耳掻きのエピソードは、強烈なメタファーだ。
「僕」がすれすれだったことを表す。
「僕」がピンボールの中に消えてしまう可能性もあって、
それは今の「僕」とそれほど大きく境のない地点に存在することを仄めかしている。
(それと呼応するように、村上春樹の中期以降の作品では、
 多くの登場人物が変われずに消えてしまう。)

いい質問にはいつも答えがない。
乖離を避けるためには現実への順応力か再喪失に耐える強さか、
もしくは現実と現在の「僕」を繋ぐチャンネルが必要なのだ。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

(僕は「あゆ」を、「僕」は小説の主人公を指す。)

村上春樹の小説には3人の男女が出てくる。

主人公の「僕」と「僕」が愛する一人の女、
そしてその女と昔繋がっていてたが、既にいなくなってしまった男だ。
(男と女が入れ替わることもある。)


「既にいなくなってしまった」。
青春三部作の「僕」は既に直子を失ってしまっていた。
物語はそこから始まっている。小説のスタートは、喪失であり、喪失で終わる。
青春三部作『羊をめぐる冒険』で「僕」は耳の綺麗な女の子に出会う。
喪失を抱える僕を救うのは、彼女の「耳」しかない。
『羊をめぐる冒険』の「僕」は残された側。

『ノルウェイの森』で直子(上記直子とは別の直子だ)はキズキを喪失している。
主人公の「僕」はその喪失を一緒に体験している。
直子の救いになりうるのは、「僕」だ。
『ノルウェイの森』の「僕」は遺された女性を愛する側。

『国境の南、太陽の西』で島本さんは「僕」を喪失している。
「僕」も島本さんを喪失している。二人は年月を経て再会する。
『国境の南、太陽の西』の「僕」は、残した側であり、残された側。

『海辺のカフカ』の佐伯さんは海辺の少年を喪失している。
「僕」は海辺の少年を愛していたかつての佐伯さんを愛する。
佐伯さんは「僕」の中の海辺の少年を愛する。
『海辺のカフカ』の「僕」は『ノルウェイの森』の僕に近い。


これらの物語で導かれる結論は一つだ。
喪失感は、何をもってしても埋まらない。
既に失われたものは、決して二度と戻らない。
喪失を味わった人間は、かつてあった小さな世界の面影を求める。
それは完全な「耳」であったり、共通の喪失体験であったりする。
あの不完全であるが故に完全な世界をそこに再び見ようとする。
けれど、面影は面影でしかない。

面影は再び、それが二度と戻れない世界なのだと再認識させる。

かつて失った当の本人と再会してもなお、それは満たされないものなのだ。
あの時のあの二人だけがなしえた世界なのだから。


戻れないと分かった時、登場人物たちはいくつかの行動を取る。
まず、今ここにある世界への順応を試みる。
それは『ノルウェイの森』で直子が濡れたシーンに代表される。
キズキとは出来なかったセックスが「僕」と出来た。
それは、キズキとの世界は「幼い世界」の出来事だったが、
「僕」との世界は、現実世界を志向するものだったからだ。
現実の世界にはセックスが存在する。
その後二度と直子が濡れないのは、
もうそちらの世界にはいけないと分かってしまったからだ。

順応の試みに失敗した人間は死を選ぶか、無関心と反復で変化を拒む。
それだけが「完全」の風化速度を遅らせることが出来る。

けれどその行き着く先は、文字通り未来がない。
それは周囲との間に新たな喪失を生みながら、終わってしまう。


喪失を抱える人間を救うことは出来ないのか。
確かに喪失は埋まらない。既に世界は失われてしまったのだ。
村上春樹の小説の中で、喪失を真に補填する登場人物は登場しない。

しかし、村上は決して、喪失者を愛することが不毛だと言っているのではない。
何度も僕が書いていることだが、人を救うのは共感や共通の経験ではなく、
もっと別の「光」のようなものなのだ。

喪失者が惹かれる人々は、二つの性質を持っている。
一つは、失った世界の面影を持っていること。
そしてもう一つは、現実世界とのチャンネルになることだ。

僕達はチャンネルになることが出来る。
そこから先は手を出せないが、僕達は現実との架け橋となる。
それを渡るかどうかは、直子や島本さんや佐伯さんの決めることだが、
橋がなければ渡るという選択肢すらない。

直子は「僕」を愛していなかったが、真に感謝していたのだ。
「僕」は彼女一人では作り出せない選択肢を与えた。それには価値がある。
そして、そういうやり方でしか、喪失者を救うことは出来ない。
『国境の南、太陽の西』では、「僕」と島本さん、二人の喪失者のうち、
一人は死を選び、一人は現実世界を生き直す。
後者が生き直しを選択できたのは、
その人間の側に、選択肢を提示してくれる誰かがいたからだ。


ある時、不完全な二人が結合し、不完全で、だから完全な世界を作り上げる。
けれどそれは必然的に、運命的に(不完全なのだから)例外なく破綻する。
再び不完全さを背負ってバラバラになった彼女は、
面影を求めて彷徨うが、それはもうないのだと再認識する。
そこに「僕」は手を差し伸べる。こちら側への手を。

彼女は感謝し、手を握りかけ、微笑んで、ゆっくりと離す。
「しようがないことなの。あなたは悪くないわ。
 あなたには感謝しているの。」

「僕」は佇む。「僕」は感謝なんかしてもらいたいのではない。
ただ、再びこちらの世界に来て欲しかった。「僕」は喪失する。

僕はそんな「僕」を抱きしめる。君は間違っていない。
彼女は救われていたのだ、と言う。
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作家 『村上春樹』?

まだまだ続く村上春樹特集。
僕は「あゆ」を、「僕」は小説の主人公を指す。

今回のテーマはメタファー。

多くの人は村上春樹の特徴としてまず、虚無感・喪失感を挙げる。
その一番の原因は『ノルウェイの森』が売れまくっているからだ。
この本は「大学生のうちに読んでおくべき本」扱いされているように思う。
しかし、この本を手に取り村上を気に入った読者が他の本に手を出すと、
往々にして戸惑いを覚える。

村上の長編小説(フィクション)の中で一番読みやすいのが、
『国境の南、太陽の西』だと思う。
この本は主人公の心情描写が他のどの本よりも詳しく書き込まれていて、
出来る限り言葉を尽くしているように感じる。
平たく言えば、心情を追いやすく分かりやすい。
その次が『ノルウェイの森』や『風の歌を聴け』だろう。
『ノルウェイの森』は『国境の南、太陽の西』よりは読みにくいが、
やっぱりこの路線の中では一番完成されていると思う。


けれど、これらの小説は、村上作品の中ではむしろ異質なのだ。
村上の作風は分かりやすさではなく、むしろ分かりにくさ、
メタファー(比喩)で特徴付けられる。

『1973年のピンボール』におけるピンボールはメタファーそのもので、
「何でピンボールにはまってるの?」と考え出したら楽しめない。
ピンボールそのものに意味はない。「反復」という行為に意味がある。
青春三部作の中で賛否両論の多い『羊をめぐる冒険』は、
『ノルウェイの森』の次に読んで僕も衝撃を受けた。
主人公達は「背中に黒い星を持つ羊」を追う。
そしてそれが一体何を意味するのかは最後まで説明されない。
羊男、耳のきれいな女の子、死者との会話。
小説の途中まで「普通の話」と思っていたのに、
いつの間にか非リアルな世界が入り込んでいる。
羊とは何のメタファーなのか?
権力であり、時代の意志のようなものだと僕は考えているが、違う意見もあるだろう。

『スプートニクの恋人』はどちらかというと読みやすい部類に入るが、
すみれの紛れ込んだ世界や、「僕」が紛れ込みかけた世界は非リアルなものだ。

そして、『海辺のカフカ』。本当に素晴らしい。
「村上春樹的なもの」の結晶だ。膨大なメタファーがある。
猫、犬、カラス、ジョニー・ウォーカー、半分になった影、
カーネル・サンダース、森、集落、図書館、始まりの石…
これらは全てメタファーである。
つまり、現実であると同時に現実の像である。
そして、そう読者が捉えることを、村上は作中で繰り返し強調し望んでいる。
もちろん、「僕」も、佐伯さんも、大島さんも、ナカタさんも、星野少年もメタファー。


これらは極めて演劇的である。
演劇という表現方法ではメタファーが多用される。
多くの登場人物は何らかの立場を象徴していたり、時には概念を象徴したりする。
演劇では夢も、非リアルも許されるし、一人二役も二人一役も許される。
時系列通りでなくてもいいし、それどころか同じ場面を繰り返しても良い。
(詳しくは『oi-scaleと演劇の価値』にて。)
演劇にはそういう自由さがある。それが僕が演劇を好む点でもある。

村上は、このような自由さで、小説を書いている。
むしろ、『海辺のカフカ』ではメタファーこそが目的だといっても良い。


何故、メタファーを多用するのか。
メタファーの方が伝わるからだ。逆説的だが、メタファーの方が分かりやすいからだ。
世界やその認識、感覚、心情。
そういったものを言語化することで損われるものが致命的なことがある。
その場合、世界の象徴もしくは像となるイメージで表現した方がいい。
というより、芸術とは、イメージを言葉を解さずイメージで伝えることなのだ。
それは音楽にせよ、舞踊にせよ、言語によらない表現では自然に為されている。
村上は、小説と言う言語媒体で、上記の意味での「言語によらない」表現を試みている。


『海辺のカフカ』は、どこまでが現実で、どこから非現実なのか、
どこまで本当に起こったことで、どこから夢なのかが明確にされない。
境目は明確にできない。全ては連続している。
彼は文学っぽく見せようとしているのではない。
それらの「境目の曖昧さ」そのものがメタファーとなって、
世界の成り立ちを象徴している。
カラスとは一体何か?佐伯さんと僕との関係は?
「白い生き物」は何のメタファーか?
そういったことに決着をつけることに、大した意味はない。
重要なのは謎解きではなく、それらの匂い、僕に齎す感情、
僕が受け取る言語化できないイメージの方なのだ。


メタファーにより、現実は現実でありながらその像となる。
「現実なのか?夢なのか?」という設問は無効化され、
「現実であり、夢である世界」が立ち上る。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

村上春樹の小説の主人公は、自分のことを「僕」という。

「俺」でも「私」でもない、「僕」。
「俺」だと、思春期的ないきがりや過度な親しみがある。
「私」だと、社会人のフォーマルさがあるし、読者に語るには疎遠な気がする。
だから、その中間的な、「僕」。

これは、「僕」が、
今までに述べた「こちらの世界(現実)」と「あちらの世界(喪失者の世界)」を
繋ぐチャンネルとしての役割を果たすこととも対応している。
どちらにも属する、中間的な、浮遊する「僕」。
喪失を引きずりながらも、何とか社会に適応している「僕」。

この中間性は何度も強調される。
『羊をめぐる冒険』に出てくる女性は、誰とでも寝る女の子、
浮気をしていた妻、夜の仕事をする耳のきれいな女性と、
誰もが規範から外れている。3人ともそうなのだからこれは意図的だ。
誰もが社会に生きながら逸脱している。
存在の危うさと言ってもいいかもしれない。
小説の中の人物(特に女性)が、どの本でもする仕草がある。
それは、「自分の手を眺める」という行為だ。僕は好感を持つ。自己確認。

こういったことは村上春樹の作品から感じる「何で登場人物が「こんな」奴らばっかなんだ」
というよくある意見の原因になっている。ように思う。
ちなみに、僕も最初は漂う暗さが不気味だったし、
同時に「こんなオシャレな会話する奴らいねーよ」っと思っていたが、
今ではとても好いている。
彼の作品の登場人物たちが実際に世の中の人たちを代表しているとは思えないし、
世にある会話、行動からかけ離れたりもしているが、
そういうところに「共感できない」ということは、問題ではない。

彼は作品にそういう意味でのリアリティを求めていない。
繰り返すように、彼の作品はメタファーであり、
世界の成り立ちと、自分の成り立ちを探る試みである。
(数多くの作品に出でてくる井戸のメタファーはまさにその象徴である。)


話がそれてきた。
何にせよ、「僕」という人称、彼の一人語りは、
彼が小説世界をそのまま「僕」の頭の中のメタファーとするのに必要とされた。


しかし、近年の彼の作品は、三人称が使われることが増えてきている。
(初期・中期の作品にも散見されるが。)
この変化は、ノンフィクション時代を境目に彼の思想が大きく転換したことが
理由だとされることが多い。

彼は地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災に心揺さぶられ、
(これらの影響を受けていない人間は文学も芸術もやるべきではないと思うが、)
そしてその関係者のインタビュー本を出すことで、
「僕」の無意識への探求による世界の認識から、
他者との関わり合いを重視するようになる。

『スプートニクの恋人』ではすみれの「日記」を「僕」が読み、
読者に晒される。
これは、第三者による地の文であると同時に、
「僕」の思考だけで世界を完結させない試みだ。

『海辺のカフカ』では、「僕」のパートと「ナカタさん」のパートに分かれるが、
前者では「カラスと呼ばれる少年」という「僕」の別人格が出てくるし、
後者では一人称が存在しない。また、星野さんの心理描写も多い。

このように、「僕」以外の心情が書き込まれるようになってくる。
そしてそれは『アフターダーク』で徹底される。

完全な三人称。主人公は不在であり、誰の物語かすら分からない。
たった一晩の出来事を客観的な描写で、250ページかけて描写する。心情描写はない。

ここで表現されているのは、メタファーとか、個人の内的世界ではなく、
ある場所・時間における、「相互作用」といったものだ。
そこに大きなドラマはないし、始まりも終わりもない。オチはない。
しかし、変化はある。世界が振動する。

賛否両論あるが、僕はこの小説がとても好きだ。
『アフターダーク』は明らかに過渡期の作品である。
それまでの村上春樹的なもの(無関心・喪失とメタファー)から、
新しいテーマ(共感と再生)へ移行してきている。


そんな感じで今後の彼の方向性に期待したい。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『となり町戦争』

いい本を読んだ。『となり町戦争』。


となり町戦争
三崎亜記

僕は小説としてこの本を優れているとは思わない。
文体も、人物造形も、ストーリーの進め方も、平凡だと思う。
平凡と言う語が否定的なら、「普通」だと思う。
amazonの書評を読むと、「劣化版村上春樹」という烙印が押されているようだ。

にも関わらず、「戦争とは何か」について、
極めて明確な答えを出した思想書として支持したい。

戦争とは何かについて語るには、戦争についての知識が必要だ。
そこで多くの戦争に反対する表現物は「如何に戦争が悲惨なのか」を強調する。
悲惨さを強調するために、大きな物語ではなくディテールに拘る。
つまり、「個人の死」を中心とした「小さな悲劇」を具に見せる。

けれど、野田秀樹の『ロープ』が示したように、
あまりに人の想像力は拙く、細部描写にすらリアリティを持てない。
何故なら、僕は痛くないからだ。
他者の痛みを自分の痛みのように感じるには限界がある。


現在の戦争の特徴はまさにここ、リアリティの無さにある。
「リアリティが無い」という実感こそが、もっとも戦争の現実を反映している。
この小説は、一貫して主人公にリアリティの無さを語らせる。
そして秀逸なのは、直接的な死の描写が一つも無いことだ。

これは現代日本の戦争論として極めて正しい。
僕達はメディアから死の臭い(背景としての死)を嗅ぎ取るだけで、
決して死そのものに触れることは無い。
もしメディアを見て「これが(本当の)戦争だ」と実感したなら、それは傲慢だろう。

僕達にとって戦争は、その全てが記号化している。
教科書と、本と、メディアによるイメージ、
そしてそこからの差異という形で捉えることしか出来ない。
小説における「広報に載る死者の数字」こそ最たるもので、記号化の表象としての記号だ。


目の前で人が殺されるのが戦争ではない。
ぼんやりとしか姿が見えず、ただいつの間にか記号的に人が死んでいく。
それが現代の戦争であって、「実感の出来なさ」こそが戦争の本質なのだ。
自分が戦争に加担しているのかどうかすら分からない、
いつ始まり、いつ終わったのかすら分からない、既に関係性は不透明化した。


視点を変えて、「となり町同士の合意による戦争」という位相も正しい。
現在の戦争と言うのは、お互いが憎みあって行われるのではなくて、
少なくとも片方にとっての一つの事業としてなされる(特に大国が行う場合)。
「共同体の幸せのために」、メリットデメリットが勘案される。
そして上の主張する「戦争により齎される幸せ」を
共同体の構成メンバーが信じることが出来ないという小説内の主張も、
現代の状況を上手く表現している。

「何のリアリティも無いけど、何かおかしい。」
こういうやり方でしか戦争に反対できない主人公は、
結局本気で戦争を嘆けない。戦闘のあった場所を探してドキドキしたりするのだ。
だから最後までリアリティなく、戦争が終わると同時に、
香西さんという「戦争のようにリアリティの無い存在
(けれど少し分かった気がする存在)」を喪失する。
そしてその個人的喪失を戦争による喪失と重ねるくらいしか出来ない。

ただただリアリティが無い。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『ラッシュライフ』と『陽気なギャング』

現代小説に慣れるシリーズ第3弾。伊坂幸太郎。

読んだのは以下の7冊。

『ラッシュライフ』(新潮社、2002年)
『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社、2003年)
『重力ピエロ』(新潮社、2003年)
『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社、2003年)
『魔王』(講談社、2005年)
『砂漠』(実業之日本社、2005年)
『陽気なギャングの日常と襲撃』(祥伝社、2006年)

『チルドレン』と『死神の精度』の人気があるらしいのだけれど、
単行本化されてないのが痛い。この頃金欠…。


ということで、まず、『ラッシュライフ』。
wikipediaによると、伊坂幸太郎は、
2002年の『ラッシュライフ』で評論家に注目され始め、直木賞候補になった2003年の『重力ピエロ』で一般読者に広く認知された。
らしい。

『ラッシュライフ』は確かに面白い。
4人の物語が互いに交差して、影響を与えていく。
伏線が多くある中で、4人の出来事の時系列を決定するのに重要なのは、
留学生のアンケート、宝くじ、犬、ミケ、強盗の老夫婦などである。
プロットが緻密に練られており、
読者の頭の中で時系列が解き明かされていくのに無理がない。
(時系列を詳しく知りたい人はこれらのブログをどうぞ。
 ・『ラッシュライフ』 解体。(ネタバレ記事です。読了後にお読み下さい!!)
 ・ラッシュライフ)

さて、僕がこの『ラッシュライフ』を評価するのは、
もちろんストーリーを複雑に絡ませておいて、ラストで綺麗に解くその上手さもあるが、
小説の扱っているテーマの爽やかさを挙げたい。
そのテーマとは「人生の豊潤さ」である。

エッシャーの絵(兵士達が階段を上がったり下がったりしている騙し絵)と、
「ラッシュ(lash、lush、rash、rush)」に込められた意味。
つまりこういうことだ。
物事は、人の解釈によって意味が変わる。
エッシャーの絵を見て何を感じるか。ラッシュとはどういう意味か。
物事は思いも拠らないやり方で連鎖している。
ある物がある物に影響を与え、そしてそれが自分に戻ってくる。
人生はラッシュである。

こういった口にすれば当たり前のことを、ワクワクと描いてくれた。
「今日という日は誰かにとっての特別の日で、
 誰かにバトンを渡すことでその人の一日が、次に別の人の特別な一日につながっていく」
という奇跡を描いてくれた。
僕が一番好感を持ったのは、次のフレーズだ。
まだ出会っていない見知らぬ誰かが、城の屋上を歩いているところを想像する。

ネタバレになるので詳しくはかけないが、
知らず知らずのうちに自分がバトンを渡した相手のことを、
登場人物たちは想像する。想像するのだ。
だとすれば、物語で最後にバトンを渡された人間は、誰のことを想像するのだろうか。
…見知らぬ誰かだ。
この一行で、物語は閉じずに、可能性として広がっていく。

その誰かは、志奈子かもしれない。志奈子が変われば、佐々岡が変わるかもしれない。
可能性は開かれている。

そしてもう一点。
志奈子と戸田の物語が最初と最後に挿入されているのには理由がある。
最後にバトンを渡される人間(Aとしよう)は、たった一日の描写しかされていない。
そしてそのたった一日で変わったのだ。
もしも、その日の朝にAが戸田とあっていたら、
例の賭けの結果は変わっていただろう。
しかし、Aにとっての「特別な一日」を経て、あのラストシーンがある。

連鎖と同時に、「人がたった一日で変われること」はこの小説のテーマだと思う。
戸田が、「絵の価値はイマジネーションではなくて、価格表の桁数で決まる」と
信じる人間であることも重要だ。
彼に対するアンチこそが、「想像する」という言葉なのだ。

話が複雑なので、一気に読んだ方がいい作品。


『陽気なギャングが地球を回す』、『陽気なギャングの日常と襲撃』。

これらの作品については伊坂幸太郎作品全体に通じるダメ出しをしたいと思う。

まず一つに、ストーリーが読めてしまうこと。
布石が明らかに布石過ぎる。「あっ、あれはそういうことか!」という驚きが少ない。
もちろん、他の作品も含めて成功しているところは多々あるのだが、
読者の裏切られ率が小さい気がする。

二つ目は、会話の内容や地の文の比喩がオシャレにしようという意図が見えすぎる。
色んな書評で「ウィットに富んだ会話」とか書かれたりしているが、
僕が読んでいると「ウィットに富ませよう感」が漂ってきて鼻に付く。
そこで揚げられる知的な教養も(例えば音楽、哲学、文学)、
少し安っぽい感じがするのは何故だろう。(村上になれすぎたからかw?)
地の文の比喩もそうだ。比喩の為の比喩な感じがして、
「イメージ伝達手段」としての本来の意味が薄らいで、人工的な感じがしてしまうのだ。

三つ目は、『砂漠』の感想で書こう。


さて、少し貶してしまったが、『陽気なギャングシリーズ』をはじめとする伊坂作品で
評価している点ももちろんある。

それは、キャラクターが立っていることだ。
ある小説を指定されたら、
台詞だけでどのキャラクターが言ったか読者は当てることができるだろう。
『ギャング』でも4人のメインキャラが全員立っているから、
物語がハキハキ進む。響野の能力がどこまで役に立っているかは分からんがw

個人的に、『ギャング』シリーズは端的に娯楽だ。
僕は基本的に小説や漫画の映像化を望まないが、
『ギャング』シリーズは是非動きを持ってやってほしい。
まさに映画的な作品。(実際映画化されている。まだ見てないけど。)
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『砂漠』『重力ピエロ』『アヒルと鴨のコインロッカー』

伊坂幸太郎の『砂漠』『重力ピエロ』『アヒルと鴨のコインロッカー』を読む。


『砂漠』
大学生の生活を暖かい視線で描いた話。以下、amazonより。
「大学の一年間なんてあっという間だ」入学、一人暮らし、新しい友人、麻雀、合コン…。学生生活を楽しむ五人の大学生が、社会という“砂漠”に囲まれた“オアシス”で超能力に遭遇し、不穏な犯罪者に翻弄され、まばたきする間に過ぎゆく日々を送っていく。パワーみなぎる、誰も知らない青春小説。

この小説には、素晴らしい仕掛けが施されている。
大学生以下が読んだら、「あっという間」の意味が分かるだろうし、
社会人が読んだら、自分の経験が蘇るだろう。
「あの感覚」をこんなにもリアルに思い出させるなんて凄い。
そう、卒業なんてあっという間だ。本当にすぐだ。
何にせよ大切なのは友達ってことだ。
ラストの一行はもう、「余韻」という点では文句なしだ。
この先に広がる砂漠の厳しさと、同時に変わらないと信じたい思い、
両方が極めて上手く表現されている。
やっぱり伊坂幸太郎には、社会派じゃなくてこういう人生の豊潤さを書いて欲しい。

ただ、鳩麦さんの宗教の話とか、「頭が良い人は物事を要約したがる」とか、
あまりに当たり前のことを気の利いたことのように登場人物に語らせるのはよろしくない。
高校〜大学低学年向きという意味ではいいのかもしれないが、
所々大人の読書に耐えない気がする。
僕は伊坂幸太郎の作品を通じてよくこの「変な背伸び感」を感じてしまう。

あぁ、大学一年生の時に読んでおきたかった作品だ。
今読んでも切なさ懐かしさ以上に、悲しさが沸き起こる。
僕は大学の中で大切なものを損ってきた。
今、拾い集める作業をしている。間に合うか?


『重力ピエロ』
直木賞候補作。以下amazonより。
半分しか血のつながりがない「私」と、弟の「春」。春は、私の母親がレイプされたときに身ごもった子である。ある日、出生前診断などの遺伝子技術を扱う私の勤め先が、何者かに放火される。町のあちこちに描かれた落書き消しを専門に請け負っている春は、現場近くに、スプレーによるグラフィティーアートが残されていることに気づく。連続放火事件と謎の落書き、レイプという憎むべき犯罪を肯定しなければ、自分が存在しない、という矛盾を抱えた春の危うさは、やがて交錯し…。


amazonにある評論家の書評が的を射ている。
伊坂流「罪と罰」ともいえる本書は、背後に重いテーマをはらみながらも、一貫して前向きで、明るい。そこには、空中ブランコを飛ぶピエロが、一瞬だけ重力を忘れることができるように、いかに困難なことであっても必ず飛び越えることができる、という著者の信念が感じられる。とくに、癌(がん)に冒されながらも、最後まで春を我が子として支援する父親の存在が、力強い。春が選んだ結末には賛否両論があるに違いないが、「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」と春に語らせた著者のもくろみが成功していることは、すがすがしい読後感が証明している。

父親のある台詞(こういうだけで読んだ人は分かるはずだ)に
泣きそうになった。強さとはこういうものだと、陳腐だが思った。
「血」という思いテーマを扱いながら、
「血縁じゃなくて、血は繋がってなくても家族の絆が大事なんだよ!」という
ありきたりな答えに短絡しないところがいい。
「連続性の証明」に必要なものが最後に提示されるまでに、十分な時間と煩悶が必要とされる。

しかし、「深刻なことを陽気に伝える」という方法論は実に成功している。
重力――。回避不可能な、僕達を束縛する力。
決定されていて、抗えず、逃げることも出来ない力。
ピエロは重力を忘れさせるために、陽気に振舞う。

それは、ピエロにとっても重力を忘れることが出来る瞬間かもしれない。


『アヒルと鴨のコインロッカー』
今までに読んだ伊坂幸太郎作品の中で僕が一番評価しているのが、
この『アヒルと鴨のコインロッカー』だ。

amazonよりあらすじ。
引っ越してきたアパートで、最初に出会ったのは黒猫、次が悪魔めいた長身の美青年。初対面だというのに、彼はいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ち掛けてきた。彼の標的は―たった一冊の広辞苑。僕は訪問販売の口車に乗せられ、危うく数十万円の教材を買いそうになった実績を持っているが、書店強盗は訪問販売とは訳が違う。しかし決行の夜、あろうことか僕はモデルガンを持って、書店の裏口に立ってしまったのだ!四散した断片が描き出す物語の全体像は?注目の気鋭による清冽なミステリ。

個人的に、今回挙げた他の6冊とははっきりとしたレベルの差を持つ良作だ。
ストーリーは現在と過去を交錯させながら進む。
両者が互いに関連付けられ、
まさにどんでん返しといっていい種明かしがなされる様は見事だと思う。
伊坂の他の作品をミステリーと呼ぶのには抵抗があるが、
この作品はそういう謎解きの面白さがある。

しかし、この小説は、そういった謎解き以外に、
素晴らしいストーリーを持っている。
過去、現在の二つのパートが交互に繰り返されるという形式自体は珍しくない。
過去が現在の原因となっていて、それをもって読者の心をうつものが多い。
この本では、各パートで、他のパートで何がこれから起こるかを述べさせてしまう。
特に、過去パートである人物が未来についての夢を見るシーンがあり、強く感動させられる。
現在は過去の延長である。

『重力ピエロ』でも感じたが、
伊坂は「死は敗北ではない」という思想を持っているのだと思う。
ラストに近付くにつれて濃縮されていく「死」は、
悲劇的だが、敗北感も悲壮感も感じさせない。

主人公とは何か、物語とは何か。
人は去る。物語は過去に回帰し、完結する。そして「再会」するだろう。

この小説は間違いなくいい。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『時生』

東野圭吾『時生』感想。Amazonより。
不治の病を患う息子に最期のときが訪れつつあるとき、宮本拓実は妻に、二十年以上前に出会った少年との想い出を語りはじめる。どうしようもない若者だった拓実は、「トキオ」と名乗る少年と共に、謎を残して消えた恋人・千鶴の行方を追った―。過去、現在、未来が交錯するベストセラー作家の集大成作品。

東野圭吾作品のテーマは実に多岐に渡るが、
この作品は未来から過去へのワープというSF的装置を用いながらも、
極めてスタンダードで、同時に教育的なテーマを扱っている。

こういうテーマは「押し付けがましくならないこと」が(小説として)求められる。
『時生』では生まれた意味というテーマを、
不治の病を持って生まれ、そして死んだトキオが語るのだから尚更だ。
そしてこの小説は、主人公のトキオにはっきり台詞としてテーマを喋らせながら、
それをすんなり受け入れさせるバランスを持っている。
好きな人が生きていると確信できれば、死の直前まで夢を見られるってことなんだよ。
明日だけが未来じゃないんだ。それは心の中にある。

このバランスが成り立つために、特殊設定が役に立っている。
それは、読者はトキオの素性や死の運命を知っているが、
台詞を投げかけられる彼の未来の父はそのことを知らないという状況である。
そのような「読者だけが知る切なさ」が、
台詞を押し付けがましくなく感動を生むものにしている。
その台詞がトキオ自身に向けられたものであると読者だけが知っているのだ。


物語は将来トキオの父となる拓美が、過去に戻ったトキオと出会い、
その不思議な少年に影響されて成長していく過程が中心である。

東野自身が「アホな主人公が書きたかった」と言っているように、拓美はアホだ。
だからこそ、成長が目立つし、子供に説教される親というユーモアも成立するのだが、
正直、腹が立ってしょうがなかった。あまりにアホ過ぎて、読んでいるのが辛くなった。
この小説を読む楽しみを大きく損った。

それを除けば、基本的には普通の娯楽小説として楽しめるだろう。
特にラストの台詞は強い感動を生む。
物語の完結と、時と魂を循環させるためには、あの台詞以外ない。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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