2008年01月01日

作家 『村上春樹』?

村上春樹の作品は喪失感・虚無感を抜きにしては語れない。
それは第一作の『風の歌を聴け』からテーマとされている。
以後、僕は「あゆ」を指し、「僕」は小説の主人公を指す。


彼が文章を書く目的は、自分と自分をとりまく事物との距離を確認するためである。
(と物語の主人公に言わせている。)
それは、自己療養のささやかな試みであり、感性よりもものさしを必要とするものなのだ。
芸術や文学ではなく、もっと個人的なものだ。


前の日記に書いたが、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』は
青春三部作と呼ばれており、共通する登場人物も出てくる。
これらの話は、1960年代の後半から1970年代にかけての喪失の物語という点で共通している。

青春とは何か?
それは強い情熱や、淡い恋心や、将来への不安の混じった希望などで
特徴づけられるものではない。(少なくとも村上春樹の青春は。)
次に思いつく青春の特徴は、
大人になることだとか、体制だとか、システムに組み込まれることのアンチ。
しかし、それでもない。アンチは何らかの行動を含んでいて、
例えば全共闘に代表されるような運動とまで行かなくても、
心情の中での反発が存在する。
村上春樹の青春三部作に出てくる登場人物たちは、
そのような反発すら存在しない。

全共闘運動に参加していた連中が、
スーツを着て就活をするようになるのを村上は傍目で見ていた。
アンチはシステムへの従順と実は似通っている。

彼(登場人物たち)の青春とは、無関心である。
アンチすらしない。ただ存在しているだけ。
そこにもちろん人間関係はあるが、何かを生み出すわけではない。
そして、何も生み出さないのなら何かを失うしかないのだ。

登場人物は去ってゆく。もしくは始めから去っていて、
それらの喪失によって、時は止まってしまう。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」
けれど実際の時間は進んでいくので、現実と「僕」の乖離は大きくなるばかりだ。
それに対処する方法こそが、無関心であり、無関心の代償が新たな喪失である。
村上の小説は繰り返しそのことをテーマにしている。

無関心と言う名の青春を生き続ける者たちは、
何らかの新しい喪失を再び味あわなくてはならない。


『風の歌を聴け』ではレゾン・デートル、自己認識という言葉が言語化されて出てくる。
「僕」は繰り返し距離を測ろうとしている。「僕」は二度失敗し学習する。
・「世界を意味づける」という方法では自己は認識できない。
・「自分の行為を何らかの指標で客観化する」という方法では自己は認識できない。


無関心と同じ文脈で出てくるのが「反復」である。
『1973年のピンボール』で著明だが、「僕」は反復に逃避する。

 しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
 永劫性について我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し測ることはできる。
 ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大ではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。

代替可能性(双子というメタファー)と反復によって世界から意味を削り取る。
自分を守るためには「変わらない世界」が必要なのだ。
それが「僕」が選んだ世界であって、
ピンボール・マシーンの「スペース・シップ」はかつて死んだ直子の魂が宿っている。
彼がピンボールと決別した時、双子も去る。


鼠も変わろうとした。鼠は言い、ジェイが聞く。
「どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないんじゃないかってね。違うかい?」
「違わないだろう」
「だから俺はそんな風に嬉々として無に向かおうとする連中にひとかけらの愛情も好意ももてなかった。……この街にもね」
「問題はあんた自身が変わろうとしてることだ。そうだね?」
「実にね」

女を残し鼠は街を去る。僕は心を動かされる。泣きたくなる。

『1973年のピンボール』の最後の耳掻きのエピソードは、強烈なメタファーだ。
「僕」がすれすれだったことを表す。
「僕」がピンボールの中に消えてしまう可能性もあって、
それは今の「僕」とそれほど大きく境のない地点に存在することを仄めかしている。
(それと呼応するように、村上春樹の中期以降の作品では、
 多くの登場人物が変われずに消えてしまう。)

いい質問にはいつも答えがない。
乖離を避けるためには現実への順応力か再喪失に耐える強さか、
もしくは現実と現在の「僕」を繋ぐチャンネルが必要なのだ。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

(僕は「あゆ」を、「僕」は小説の主人公を指す。)

村上春樹の小説には3人の男女が出てくる。

主人公の「僕」と「僕」が愛する一人の女、
そしてその女と昔繋がっていてたが、既にいなくなってしまった男だ。
(男と女が入れ替わることもある。)


「既にいなくなってしまった」。
青春三部作の「僕」は既に直子を失ってしまっていた。
物語はそこから始まっている。小説のスタートは、喪失であり、喪失で終わる。
青春三部作『羊をめぐる冒険』で「僕」は耳の綺麗な女の子に出会う。
喪失を抱える僕を救うのは、彼女の「耳」しかない。
『羊をめぐる冒険』の「僕」は残された側。

『ノルウェイの森』で直子(上記直子とは別の直子だ)はキズキを喪失している。
主人公の「僕」はその喪失を一緒に体験している。
直子の救いになりうるのは、「僕」だ。
『ノルウェイの森』の「僕」は遺された女性を愛する側。

『国境の南、太陽の西』で島本さんは「僕」を喪失している。
「僕」も島本さんを喪失している。二人は年月を経て再会する。
『国境の南、太陽の西』の「僕」は、残した側であり、残された側。

『海辺のカフカ』の佐伯さんは海辺の少年を喪失している。
「僕」は海辺の少年を愛していたかつての佐伯さんを愛する。
佐伯さんは「僕」の中の海辺の少年を愛する。
『海辺のカフカ』の「僕」は『ノルウェイの森』の僕に近い。


これらの物語で導かれる結論は一つだ。
喪失感は、何をもってしても埋まらない。
既に失われたものは、決して二度と戻らない。
喪失を味わった人間は、かつてあった小さな世界の面影を求める。
それは完全な「耳」であったり、共通の喪失体験であったりする。
あの不完全であるが故に完全な世界をそこに再び見ようとする。
けれど、面影は面影でしかない。

面影は再び、それが二度と戻れない世界なのだと再認識させる。

かつて失った当の本人と再会してもなお、それは満たされないものなのだ。
あの時のあの二人だけがなしえた世界なのだから。


戻れないと分かった時、登場人物たちはいくつかの行動を取る。
まず、今ここにある世界への順応を試みる。
それは『ノルウェイの森』で直子が濡れたシーンに代表される。
キズキとは出来なかったセックスが「僕」と出来た。
それは、キズキとの世界は「幼い世界」の出来事だったが、
「僕」との世界は、現実世界を志向するものだったからだ。
現実の世界にはセックスが存在する。
その後二度と直子が濡れないのは、
もうそちらの世界にはいけないと分かってしまったからだ。

順応の試みに失敗した人間は死を選ぶか、無関心と反復で変化を拒む。
それだけが「完全」の風化速度を遅らせることが出来る。

けれどその行き着く先は、文字通り未来がない。
それは周囲との間に新たな喪失を生みながら、終わってしまう。


喪失を抱える人間を救うことは出来ないのか。
確かに喪失は埋まらない。既に世界は失われてしまったのだ。
村上春樹の小説の中で、喪失を真に補填する登場人物は登場しない。

しかし、村上は決して、喪失者を愛することが不毛だと言っているのではない。
何度も僕が書いていることだが、人を救うのは共感や共通の経験ではなく、
もっと別の「光」のようなものなのだ。

喪失者が惹かれる人々は、二つの性質を持っている。
一つは、失った世界の面影を持っていること。
そしてもう一つは、現実世界とのチャンネルになることだ。

僕達はチャンネルになることが出来る。
そこから先は手を出せないが、僕達は現実との架け橋となる。
それを渡るかどうかは、直子や島本さんや佐伯さんの決めることだが、
橋がなければ渡るという選択肢すらない。

直子は「僕」を愛していなかったが、真に感謝していたのだ。
「僕」は彼女一人では作り出せない選択肢を与えた。それには価値がある。
そして、そういうやり方でしか、喪失者を救うことは出来ない。
『国境の南、太陽の西』では、「僕」と島本さん、二人の喪失者のうち、
一人は死を選び、一人は現実世界を生き直す。
後者が生き直しを選択できたのは、
その人間の側に、選択肢を提示してくれる誰かがいたからだ。


ある時、不完全な二人が結合し、不完全で、だから完全な世界を作り上げる。
けれどそれは必然的に、運命的に(不完全なのだから)例外なく破綻する。
再び不完全さを背負ってバラバラになった彼女は、
面影を求めて彷徨うが、それはもうないのだと再認識する。
そこに「僕」は手を差し伸べる。こちら側への手を。

彼女は感謝し、手を握りかけ、微笑んで、ゆっくりと離す。
「しようがないことなの。あなたは悪くないわ。
 あなたには感謝しているの。」

「僕」は佇む。「僕」は感謝なんかしてもらいたいのではない。
ただ、再びこちらの世界に来て欲しかった。「僕」は喪失する。

僕はそんな「僕」を抱きしめる。君は間違っていない。
彼女は救われていたのだ、と言う。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

まだまだ続く村上春樹特集。
僕は「あゆ」を、「僕」は小説の主人公を指す。

今回のテーマはメタファー。

多くの人は村上春樹の特徴としてまず、虚無感・喪失感を挙げる。
その一番の原因は『ノルウェイの森』が売れまくっているからだ。
この本は「大学生のうちに読んでおくべき本」扱いされているように思う。
しかし、この本を手に取り村上を気に入った読者が他の本に手を出すと、
往々にして戸惑いを覚える。

村上の長編小説(フィクション)の中で一番読みやすいのが、
『国境の南、太陽の西』だと思う。
この本は主人公の心情描写が他のどの本よりも詳しく書き込まれていて、
出来る限り言葉を尽くしているように感じる。
平たく言えば、心情を追いやすく分かりやすい。
その次が『ノルウェイの森』や『風の歌を聴け』だろう。
『ノルウェイの森』は『国境の南、太陽の西』よりは読みにくいが、
やっぱりこの路線の中では一番完成されていると思う。


けれど、これらの小説は、村上作品の中ではむしろ異質なのだ。
村上の作風は分かりやすさではなく、むしろ分かりにくさ、
メタファー(比喩)で特徴付けられる。

『1973年のピンボール』におけるピンボールはメタファーそのもので、
「何でピンボールにはまってるの?」と考え出したら楽しめない。
ピンボールそのものに意味はない。「反復」という行為に意味がある。
青春三部作の中で賛否両論の多い『羊をめぐる冒険』は、
『ノルウェイの森』の次に読んで僕も衝撃を受けた。
主人公達は「背中に黒い星を持つ羊」を追う。
そしてそれが一体何を意味するのかは最後まで説明されない。
羊男、耳のきれいな女の子、死者との会話。
小説の途中まで「普通の話」と思っていたのに、
いつの間にか非リアルな世界が入り込んでいる。
羊とは何のメタファーなのか?
権力であり、時代の意志のようなものだと僕は考えているが、違う意見もあるだろう。

『スプートニクの恋人』はどちらかというと読みやすい部類に入るが、
すみれの紛れ込んだ世界や、「僕」が紛れ込みかけた世界は非リアルなものだ。

そして、『海辺のカフカ』。本当に素晴らしい。
「村上春樹的なもの」の結晶だ。膨大なメタファーがある。
猫、犬、カラス、ジョニー・ウォーカー、半分になった影、
カーネル・サンダース、森、集落、図書館、始まりの石…
これらは全てメタファーである。
つまり、現実であると同時に現実の像である。
そして、そう読者が捉えることを、村上は作中で繰り返し強調し望んでいる。
もちろん、「僕」も、佐伯さんも、大島さんも、ナカタさんも、星野少年もメタファー。


これらは極めて演劇的である。
演劇という表現方法ではメタファーが多用される。
多くの登場人物は何らかの立場を象徴していたり、時には概念を象徴したりする。
演劇では夢も、非リアルも許されるし、一人二役も二人一役も許される。
時系列通りでなくてもいいし、それどころか同じ場面を繰り返しても良い。
(詳しくは『oi-scaleと演劇の価値』にて。)
演劇にはそういう自由さがある。それが僕が演劇を好む点でもある。

村上は、このような自由さで、小説を書いている。
むしろ、『海辺のカフカ』ではメタファーこそが目的だといっても良い。


何故、メタファーを多用するのか。
メタファーの方が伝わるからだ。逆説的だが、メタファーの方が分かりやすいからだ。
世界やその認識、感覚、心情。
そういったものを言語化することで損われるものが致命的なことがある。
その場合、世界の象徴もしくは像となるイメージで表現した方がいい。
というより、芸術とは、イメージを言葉を解さずイメージで伝えることなのだ。
それは音楽にせよ、舞踊にせよ、言語によらない表現では自然に為されている。
村上は、小説と言う言語媒体で、上記の意味での「言語によらない」表現を試みている。


『海辺のカフカ』は、どこまでが現実で、どこから非現実なのか、
どこまで本当に起こったことで、どこから夢なのかが明確にされない。
境目は明確にできない。全ては連続している。
彼は文学っぽく見せようとしているのではない。
それらの「境目の曖昧さ」そのものがメタファーとなって、
世界の成り立ちを象徴している。
カラスとは一体何か?佐伯さんと僕との関係は?
「白い生き物」は何のメタファーか?
そういったことに決着をつけることに、大した意味はない。
重要なのは謎解きではなく、それらの匂い、僕に齎す感情、
僕が受け取る言語化できないイメージの方なのだ。


メタファーにより、現実は現実でありながらその像となる。
「現実なのか?夢なのか?」という設問は無効化され、
「現実であり、夢である世界」が立ち上る。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

村上春樹の小説の主人公は、自分のことを「僕」という。

「俺」でも「私」でもない、「僕」。
「俺」だと、思春期的ないきがりや過度な親しみがある。
「私」だと、社会人のフォーマルさがあるし、読者に語るには疎遠な気がする。
だから、その中間的な、「僕」。

これは、「僕」が、
今までに述べた「こちらの世界(現実)」と「あちらの世界(喪失者の世界)」を
繋ぐチャンネルとしての役割を果たすこととも対応している。
どちらにも属する、中間的な、浮遊する「僕」。
喪失を引きずりながらも、何とか社会に適応している「僕」。

この中間性は何度も強調される。
『羊をめぐる冒険』に出てくる女性は、誰とでも寝る女の子、
浮気をしていた妻、夜の仕事をする耳のきれいな女性と、
誰もが規範から外れている。3人ともそうなのだからこれは意図的だ。
誰もが社会に生きながら逸脱している。
存在の危うさと言ってもいいかもしれない。
小説の中の人物(特に女性)が、どの本でもする仕草がある。
それは、「自分の手を眺める」という行為だ。僕は好感を持つ。自己確認。

こういったことは村上春樹の作品から感じる「何で登場人物が「こんな」奴らばっかなんだ」
というよくある意見の原因になっている。ように思う。
ちなみに、僕も最初は漂う暗さが不気味だったし、
同時に「こんなオシャレな会話する奴らいねーよ」っと思っていたが、
今ではとても好いている。
彼の作品の登場人物たちが実際に世の中の人たちを代表しているとは思えないし、
世にある会話、行動からかけ離れたりもしているが、
そういうところに「共感できない」ということは、問題ではない。

彼は作品にそういう意味でのリアリティを求めていない。
繰り返すように、彼の作品はメタファーであり、
世界の成り立ちと、自分の成り立ちを探る試みである。
(数多くの作品に出でてくる井戸のメタファーはまさにその象徴である。)


話がそれてきた。
何にせよ、「僕」という人称、彼の一人語りは、
彼が小説世界をそのまま「僕」の頭の中のメタファーとするのに必要とされた。


しかし、近年の彼の作品は、三人称が使われることが増えてきている。
(初期・中期の作品にも散見されるが。)
この変化は、ノンフィクション時代を境目に彼の思想が大きく転換したことが
理由だとされることが多い。

彼は地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災に心揺さぶられ、
(これらの影響を受けていない人間は文学も芸術もやるべきではないと思うが、)
そしてその関係者のインタビュー本を出すことで、
「僕」の無意識への探求による世界の認識から、
他者との関わり合いを重視するようになる。

『スプートニクの恋人』ではすみれの「日記」を「僕」が読み、
読者に晒される。
これは、第三者による地の文であると同時に、
「僕」の思考だけで世界を完結させない試みだ。

『海辺のカフカ』では、「僕」のパートと「ナカタさん」のパートに分かれるが、
前者では「カラスと呼ばれる少年」という「僕」の別人格が出てくるし、
後者では一人称が存在しない。また、星野さんの心理描写も多い。

このように、「僕」以外の心情が書き込まれるようになってくる。
そしてそれは『アフターダーク』で徹底される。

完全な三人称。主人公は不在であり、誰の物語かすら分からない。
たった一晩の出来事を客観的な描写で、250ページかけて描写する。心情描写はない。

ここで表現されているのは、メタファーとか、個人の内的世界ではなく、
ある場所・時間における、「相互作用」といったものだ。
そこに大きなドラマはないし、始まりも終わりもない。オチはない。
しかし、変化はある。世界が振動する。

賛否両論あるが、僕はこの小説がとても好きだ。
『アフターダーク』は明らかに過渡期の作品である。
それまでの村上春樹的なもの(無関心・喪失とメタファー)から、
新しいテーマ(共感と再生)へ移行してきている。


そんな感じで今後の彼の方向性に期待したい。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『となり町戦争』

いい本を読んだ。『となり町戦争』。


となり町戦争
三崎亜記

僕は小説としてこの本を優れているとは思わない。
文体も、人物造形も、ストーリーの進め方も、平凡だと思う。
平凡と言う語が否定的なら、「普通」だと思う。
amazonの書評を読むと、「劣化版村上春樹」という烙印が押されているようだ。

にも関わらず、「戦争とは何か」について、
極めて明確な答えを出した思想書として支持したい。

戦争とは何かについて語るには、戦争についての知識が必要だ。
そこで多くの戦争に反対する表現物は「如何に戦争が悲惨なのか」を強調する。
悲惨さを強調するために、大きな物語ではなくディテールに拘る。
つまり、「個人の死」を中心とした「小さな悲劇」を具に見せる。

けれど、野田秀樹の『ロープ』が示したように、
あまりに人の想像力は拙く、細部描写にすらリアリティを持てない。
何故なら、僕は痛くないからだ。
他者の痛みを自分の痛みのように感じるには限界がある。


現在の戦争の特徴はまさにここ、リアリティの無さにある。
「リアリティが無い」という実感こそが、もっとも戦争の現実を反映している。
この小説は、一貫して主人公にリアリティの無さを語らせる。
そして秀逸なのは、直接的な死の描写が一つも無いことだ。

これは現代日本の戦争論として極めて正しい。
僕達はメディアから死の臭い(背景としての死)を嗅ぎ取るだけで、
決して死そのものに触れることは無い。
もしメディアを見て「これが(本当の)戦争だ」と実感したなら、それは傲慢だろう。

僕達にとって戦争は、その全てが記号化している。
教科書と、本と、メディアによるイメージ、
そしてそこからの差異という形で捉えることしか出来ない。
小説における「広報に載る死者の数字」こそ最たるもので、記号化の表象としての記号だ。


目の前で人が殺されるのが戦争ではない。
ぼんやりとしか姿が見えず、ただいつの間にか記号的に人が死んでいく。
それが現代の戦争であって、「実感の出来なさ」こそが戦争の本質なのだ。
自分が戦争に加担しているのかどうかすら分からない、
いつ始まり、いつ終わったのかすら分からない、既に関係性は不透明化した。


視点を変えて、「となり町同士の合意による戦争」という位相も正しい。
現在の戦争と言うのは、お互いが憎みあって行われるのではなくて、
少なくとも片方にとっての一つの事業としてなされる(特に大国が行う場合)。
「共同体の幸せのために」、メリットデメリットが勘案される。
そして上の主張する「戦争により齎される幸せ」を
共同体の構成メンバーが信じることが出来ないという小説内の主張も、
現代の状況を上手く表現している。

「何のリアリティも無いけど、何かおかしい。」
こういうやり方でしか戦争に反対できない主人公は、
結局本気で戦争を嘆けない。戦闘のあった場所を探してドキドキしたりするのだ。
だから最後までリアリティなく、戦争が終わると同時に、
香西さんという「戦争のようにリアリティの無い存在
(けれど少し分かった気がする存在)」を喪失する。
そしてその個人的喪失を戦争による喪失と重ねるくらいしか出来ない。

ただただリアリティが無い。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『ラッシュライフ』と『陽気なギャング』

現代小説に慣れるシリーズ第3弾。伊坂幸太郎。

読んだのは以下の7冊。

『ラッシュライフ』(新潮社、2002年)
『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社、2003年)
『重力ピエロ』(新潮社、2003年)
『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社、2003年)
『魔王』(講談社、2005年)
『砂漠』(実業之日本社、2005年)
『陽気なギャングの日常と襲撃』(祥伝社、2006年)

『チルドレン』と『死神の精度』の人気があるらしいのだけれど、
単行本化されてないのが痛い。この頃金欠…。


ということで、まず、『ラッシュライフ』。
wikipediaによると、伊坂幸太郎は、
2002年の『ラッシュライフ』で評論家に注目され始め、直木賞候補になった2003年の『重力ピエロ』で一般読者に広く認知された。
らしい。

『ラッシュライフ』は確かに面白い。
4人の物語が互いに交差して、影響を与えていく。
伏線が多くある中で、4人の出来事の時系列を決定するのに重要なのは、
留学生のアンケート、宝くじ、犬、ミケ、強盗の老夫婦などである。
プロットが緻密に練られており、
読者の頭の中で時系列が解き明かされていくのに無理がない。
(時系列を詳しく知りたい人はこれらのブログをどうぞ。
 ・『ラッシュライフ』 解体。(ネタバレ記事です。読了後にお読み下さい!!)
 ・ラッシュライフ)

さて、僕がこの『ラッシュライフ』を評価するのは、
もちろんストーリーを複雑に絡ませておいて、ラストで綺麗に解くその上手さもあるが、
小説の扱っているテーマの爽やかさを挙げたい。
そのテーマとは「人生の豊潤さ」である。

エッシャーの絵(兵士達が階段を上がったり下がったりしている騙し絵)と、
「ラッシュ(lash、lush、rash、rush)」に込められた意味。
つまりこういうことだ。
物事は、人の解釈によって意味が変わる。
エッシャーの絵を見て何を感じるか。ラッシュとはどういう意味か。
物事は思いも拠らないやり方で連鎖している。
ある物がある物に影響を与え、そしてそれが自分に戻ってくる。
人生はラッシュである。

こういった口にすれば当たり前のことを、ワクワクと描いてくれた。
「今日という日は誰かにとっての特別の日で、
 誰かにバトンを渡すことでその人の一日が、次に別の人の特別な一日につながっていく」
という奇跡を描いてくれた。
僕が一番好感を持ったのは、次のフレーズだ。
まだ出会っていない見知らぬ誰かが、城の屋上を歩いているところを想像する。

ネタバレになるので詳しくはかけないが、
知らず知らずのうちに自分がバトンを渡した相手のことを、
登場人物たちは想像する。想像するのだ。
だとすれば、物語で最後にバトンを渡された人間は、誰のことを想像するのだろうか。
…見知らぬ誰かだ。
この一行で、物語は閉じずに、可能性として広がっていく。

その誰かは、志奈子かもしれない。志奈子が変われば、佐々岡が変わるかもしれない。
可能性は開かれている。

そしてもう一点。
志奈子と戸田の物語が最初と最後に挿入されているのには理由がある。
最後にバトンを渡される人間(Aとしよう)は、たった一日の描写しかされていない。
そしてそのたった一日で変わったのだ。
もしも、その日の朝にAが戸田とあっていたら、
例の賭けの結果は変わっていただろう。
しかし、Aにとっての「特別な一日」を経て、あのラストシーンがある。

連鎖と同時に、「人がたった一日で変われること」はこの小説のテーマだと思う。
戸田が、「絵の価値はイマジネーションではなくて、価格表の桁数で決まる」と
信じる人間であることも重要だ。
彼に対するアンチこそが、「想像する」という言葉なのだ。

話が複雑なので、一気に読んだ方がいい作品。


『陽気なギャングが地球を回す』、『陽気なギャングの日常と襲撃』。

これらの作品については伊坂幸太郎作品全体に通じるダメ出しをしたいと思う。

まず一つに、ストーリーが読めてしまうこと。
布石が明らかに布石過ぎる。「あっ、あれはそういうことか!」という驚きが少ない。
もちろん、他の作品も含めて成功しているところは多々あるのだが、
読者の裏切られ率が小さい気がする。

二つ目は、会話の内容や地の文の比喩がオシャレにしようという意図が見えすぎる。
色んな書評で「ウィットに富んだ会話」とか書かれたりしているが、
僕が読んでいると「ウィットに富ませよう感」が漂ってきて鼻に付く。
そこで揚げられる知的な教養も(例えば音楽、哲学、文学)、
少し安っぽい感じがするのは何故だろう。(村上になれすぎたからかw?)
地の文の比喩もそうだ。比喩の為の比喩な感じがして、
「イメージ伝達手段」としての本来の意味が薄らいで、人工的な感じがしてしまうのだ。

三つ目は、『砂漠』の感想で書こう。


さて、少し貶してしまったが、『陽気なギャングシリーズ』をはじめとする伊坂作品で
評価している点ももちろんある。

それは、キャラクターが立っていることだ。
ある小説を指定されたら、
台詞だけでどのキャラクターが言ったか読者は当てることができるだろう。
『ギャング』でも4人のメインキャラが全員立っているから、
物語がハキハキ進む。響野の能力がどこまで役に立っているかは分からんがw

個人的に、『ギャング』シリーズは端的に娯楽だ。
僕は基本的に小説や漫画の映像化を望まないが、
『ギャング』シリーズは是非動きを持ってやってほしい。
まさに映画的な作品。(実際映画化されている。まだ見てないけど。)
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『砂漠』『重力ピエロ』『アヒルと鴨のコインロッカー』

伊坂幸太郎の『砂漠』『重力ピエロ』『アヒルと鴨のコインロッカー』を読む。


『砂漠』
大学生の生活を暖かい視線で描いた話。以下、amazonより。
「大学の一年間なんてあっという間だ」入学、一人暮らし、新しい友人、麻雀、合コン…。学生生活を楽しむ五人の大学生が、社会という“砂漠”に囲まれた“オアシス”で超能力に遭遇し、不穏な犯罪者に翻弄され、まばたきする間に過ぎゆく日々を送っていく。パワーみなぎる、誰も知らない青春小説。

この小説には、素晴らしい仕掛けが施されている。
大学生以下が読んだら、「あっという間」の意味が分かるだろうし、
社会人が読んだら、自分の経験が蘇るだろう。
「あの感覚」をこんなにもリアルに思い出させるなんて凄い。
そう、卒業なんてあっという間だ。本当にすぐだ。
何にせよ大切なのは友達ってことだ。
ラストの一行はもう、「余韻」という点では文句なしだ。
この先に広がる砂漠の厳しさと、同時に変わらないと信じたい思い、
両方が極めて上手く表現されている。
やっぱり伊坂幸太郎には、社会派じゃなくてこういう人生の豊潤さを書いて欲しい。

ただ、鳩麦さんの宗教の話とか、「頭が良い人は物事を要約したがる」とか、
あまりに当たり前のことを気の利いたことのように登場人物に語らせるのはよろしくない。
高校〜大学低学年向きという意味ではいいのかもしれないが、
所々大人の読書に耐えない気がする。
僕は伊坂幸太郎の作品を通じてよくこの「変な背伸び感」を感じてしまう。

あぁ、大学一年生の時に読んでおきたかった作品だ。
今読んでも切なさ懐かしさ以上に、悲しさが沸き起こる。
僕は大学の中で大切なものを損ってきた。
今、拾い集める作業をしている。間に合うか?


『重力ピエロ』
直木賞候補作。以下amazonより。
半分しか血のつながりがない「私」と、弟の「春」。春は、私の母親がレイプされたときに身ごもった子である。ある日、出生前診断などの遺伝子技術を扱う私の勤め先が、何者かに放火される。町のあちこちに描かれた落書き消しを専門に請け負っている春は、現場近くに、スプレーによるグラフィティーアートが残されていることに気づく。連続放火事件と謎の落書き、レイプという憎むべき犯罪を肯定しなければ、自分が存在しない、という矛盾を抱えた春の危うさは、やがて交錯し…。


amazonにある評論家の書評が的を射ている。
伊坂流「罪と罰」ともいえる本書は、背後に重いテーマをはらみながらも、一貫して前向きで、明るい。そこには、空中ブランコを飛ぶピエロが、一瞬だけ重力を忘れることができるように、いかに困難なことであっても必ず飛び越えることができる、という著者の信念が感じられる。とくに、癌(がん)に冒されながらも、最後まで春を我が子として支援する父親の存在が、力強い。春が選んだ結末には賛否両論があるに違いないが、「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」と春に語らせた著者のもくろみが成功していることは、すがすがしい読後感が証明している。

父親のある台詞(こういうだけで読んだ人は分かるはずだ)に
泣きそうになった。強さとはこういうものだと、陳腐だが思った。
「血」という思いテーマを扱いながら、
「血縁じゃなくて、血は繋がってなくても家族の絆が大事なんだよ!」という
ありきたりな答えに短絡しないところがいい。
「連続性の証明」に必要なものが最後に提示されるまでに、十分な時間と煩悶が必要とされる。

しかし、「深刻なことを陽気に伝える」という方法論は実に成功している。
重力――。回避不可能な、僕達を束縛する力。
決定されていて、抗えず、逃げることも出来ない力。
ピエロは重力を忘れさせるために、陽気に振舞う。

それは、ピエロにとっても重力を忘れることが出来る瞬間かもしれない。


『アヒルと鴨のコインロッカー』
今までに読んだ伊坂幸太郎作品の中で僕が一番評価しているのが、
この『アヒルと鴨のコインロッカー』だ。

amazonよりあらすじ。
引っ越してきたアパートで、最初に出会ったのは黒猫、次が悪魔めいた長身の美青年。初対面だというのに、彼はいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ち掛けてきた。彼の標的は―たった一冊の広辞苑。僕は訪問販売の口車に乗せられ、危うく数十万円の教材を買いそうになった実績を持っているが、書店強盗は訪問販売とは訳が違う。しかし決行の夜、あろうことか僕はモデルガンを持って、書店の裏口に立ってしまったのだ!四散した断片が描き出す物語の全体像は?注目の気鋭による清冽なミステリ。

個人的に、今回挙げた他の6冊とははっきりとしたレベルの差を持つ良作だ。
ストーリーは現在と過去を交錯させながら進む。
両者が互いに関連付けられ、
まさにどんでん返しといっていい種明かしがなされる様は見事だと思う。
伊坂の他の作品をミステリーと呼ぶのには抵抗があるが、
この作品はそういう謎解きの面白さがある。

しかし、この小説は、そういった謎解き以外に、
素晴らしいストーリーを持っている。
過去、現在の二つのパートが交互に繰り返されるという形式自体は珍しくない。
過去が現在の原因となっていて、それをもって読者の心をうつものが多い。
この本では、各パートで、他のパートで何がこれから起こるかを述べさせてしまう。
特に、過去パートである人物が未来についての夢を見るシーンがあり、強く感動させられる。
現在は過去の延長である。

『重力ピエロ』でも感じたが、
伊坂は「死は敗北ではない」という思想を持っているのだと思う。
ラストに近付くにつれて濃縮されていく「死」は、
悲劇的だが、敗北感も悲壮感も感じさせない。

主人公とは何か、物語とは何か。
人は去る。物語は過去に回帰し、完結する。そして「再会」するだろう。

この小説は間違いなくいい。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『時生』

東野圭吾『時生』感想。Amazonより。
不治の病を患う息子に最期のときが訪れつつあるとき、宮本拓実は妻に、二十年以上前に出会った少年との想い出を語りはじめる。どうしようもない若者だった拓実は、「トキオ」と名乗る少年と共に、謎を残して消えた恋人・千鶴の行方を追った―。過去、現在、未来が交錯するベストセラー作家の集大成作品。

東野圭吾作品のテーマは実に多岐に渡るが、
この作品は未来から過去へのワープというSF的装置を用いながらも、
極めてスタンダードで、同時に教育的なテーマを扱っている。

こういうテーマは「押し付けがましくならないこと」が(小説として)求められる。
『時生』では生まれた意味というテーマを、
不治の病を持って生まれ、そして死んだトキオが語るのだから尚更だ。
そしてこの小説は、主人公のトキオにはっきり台詞としてテーマを喋らせながら、
それをすんなり受け入れさせるバランスを持っている。
好きな人が生きていると確信できれば、死の直前まで夢を見られるってことなんだよ。
明日だけが未来じゃないんだ。それは心の中にある。

このバランスが成り立つために、特殊設定が役に立っている。
それは、読者はトキオの素性や死の運命を知っているが、
台詞を投げかけられる彼の未来の父はそのことを知らないという状況である。
そのような「読者だけが知る切なさ」が、
台詞を押し付けがましくなく感動を生むものにしている。
その台詞がトキオ自身に向けられたものであると読者だけが知っているのだ。


物語は将来トキオの父となる拓美が、過去に戻ったトキオと出会い、
その不思議な少年に影響されて成長していく過程が中心である。

東野自身が「アホな主人公が書きたかった」と言っているように、拓美はアホだ。
だからこそ、成長が目立つし、子供に説教される親というユーモアも成立するのだが、
正直、腹が立ってしょうがなかった。あまりにアホ過ぎて、読んでいるのが辛くなった。
この小説を読む楽しみを大きく損った。

それを除けば、基本的には普通の娯楽小説として楽しめるだろう。
特にラストの台詞は強い感動を生む。
物語の完結と、時と魂を循環させるためには、あの台詞以外ない。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『邪眼は月輪に飛ぶ』

書店で目に付いた藤田和日郎の『邪眼は月輪(がちりん)に飛ぶ』を読む。


邪眼は月輪に飛ぶ
藤田和日郎


『うしおととら』世代(現22〜28歳くらいか?)にとって、藤田和日朗は神様的存在だ。
綺麗な絵ではない。しかし、そのクセのあるペン筋は、その先に藤田を見る確かな媒介となる。
『うしおととら』で藤田の世界観は半分完成されている。
人と科学、妖怪と自然。二元対立でないのはもちろんのこと、
ラスボスと言っていい白面の者との戦いで示されるテーマは、共存の作法を示す。

(ちなみに『からくりサーカス』については全部を読んでいないのでここでは触れない。)


妖怪への愛着は、彼に通底している。
未知のもの、恐怖、制御できないもの。そういったもののメタファーでありながら、
対峙するのでも、操作するのでもなく、ただ開かれる。


だからこそ、白面の者も『邪眼は月輪に飛ぶ』のミネルヴァも、読者は憎めない。
藤田は決定的な対峙・対決を拒否する。
最も凶悪と思われていた敵が、最も恐れ、最も愛したものが何かが最後になって示される。
僕達はそこへの共感を通して、彼らが実は「同じ」だったのだと知る。

ミネルヴァが守ろうとするものは、「最愛の妻」だ。
しかしその守備行動こそが人々の不幸の元となる場合、人々にどんな選択があるだろう。
そして、実は人々こそが「ミネルヴァ」だったと知った時、
ミネルヴァなき後で、それに対しどんな処方箋があるのだろう。

物語は入れ子構造だ。
僕達が彼の者に対していた感情は、本当は自分に向けられるべきものだったと知る。


ここから余談(メディア批判)だが、こんなシーンがある。
ミネルヴァというのは、目が合っただけで見たものが死に至る「凶悪」なフクロウだ。
このミネルヴァが東京を飛び回るところから悲劇は始まる。
そして、それを助長するのが、メディアだ。
彼らはあろうことか、その姿を電波に乗せてしまい、テレビを通して
多くの国民が死ぬ。
(二度目に読むとこれが直接的描写以上の強烈なメタファーだと分かる。)

このシーンを読んだ時、本当に腹が立った。現実のメディアそのものだと思った。
そして、僕は心からメディアが嫌いなのだと思った。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『白夜行』

東野圭吾『白夜行』感想。
900P近い長編小説。だんだんこういうのも一日で読めるようになってきた。
昔はすぐ挫折してたからなあw

あらすじ。楽天ブックスから。
1973年、大阪の廃墟ビルで一人の質屋が殺された。容疑者は次々に浮かぶが、結局、事件は迷宮入りする。被害者の息子・桐原亮司と、「容疑者」の娘・西本雪穂―暗い眼をした少年と、並外れて美しい少女は、その後、全く別々の道を歩んで行く。二人の周囲に見え隠れする、幾つもの恐るべき犯罪。だが、何も「証拠」はない。そして十九年…。息詰まる精緻な構成と、叙事詩的スケール。心を失った人間の悲劇を描く、傑作ミステリー長篇。

面白い、が、ストーリー的に驚きはない。

亮司と雪穂の救われない物語。
似た境遇を持つ二人がお互いの人生を影で支えていく。
しかしそのやり方は文字通り犯罪的なもので、
人には気付かれず、証拠を残さない。
そして自己犠牲的でもある。

ストーリーはある段階から反復的な内容となり、それは最後まで続く。
これからどんな事件が起こるか予想できるし、
「亮司と雪穂が影で動く」ことが読者に前提とされていくので、
色々な事象が少しずつ辻褄が合うように説明されていく。
(それはストーリーが予定調和になることでもある。)

しかし、影でどんなことが起こっていたのかを読みながら想像するのは楽しい。
亮司や雪穂の心情描写は一切ないので、全ての真相は推測になる。
何故、東野は亮司や雪穂の心の中を隠すのか。僕はこの方法論は正しいと考えている。
彼らは孤独であり、誰にも理解されず、影で結合している。
彼らの周囲の人間が彼らのことを分からないように、読者にも分からないのだ。
この世界には、二人に共感する人間など存在しない。
だからこそ、二人の思いは、直接的には読者に伝わってはならない。
二人の気持ちを描かないという方法論こそが、二人の孤独を象徴している。
直木賞の選評では内面を描かないことを批判されているが、
個人的に言えば、内面が描かれていたらこの小説にそこまで価値なんてなかったと思う。


さて、最終的な亮司の選択にせよ、その後の物語にせよ、推測すべきことだらけだ。
東野圭吾のファンサイトに「白夜行に残された謎」として色々な解釈が書かれている。
また、こちらの時系列も参考になる。

ここで取り上げたいのは色々な犯罪の真相ではなく、亮司と雪穂の関係性について。
二人は、どのような関係だったのか?
TVドラマでは恋愛関係にあったことが明かされるらしいが、
小説では、二人の直接的な関係について触れられることはない。
唯一触れられるのは最初の事件が起こる前に図書館でよく一緒にいたということだけだ。

二人は男女として愛し合っていたのか?これは自明ではない。
恐らく、
互いの境遇に対するシンパシー、仲間意識、大切な存在だという認識はあっただろう。
しかし、それ以上のことは分からない。
亮司の献身ぶりや、ラストシーンで彼がした選択、
射精困難な彼が友達を助けるために精液を採取できたという事実などは、
亮司の雪穂への愛を示しているように思う。

けれど雪穂の方が分からない。
彼が亮司に対する愛情を持っていたのかどうかすら、分からない。
あのラストだと、全てをひっくるめて彼女の思惑で進んでいたという解釈だって出来る。
(もちろん、亮司のことを愛していたって、ラストの台詞は出るわけだが。)

二人の関係は、共生関係であることは確かだが、その関係性は対等とは思えない。
そしてそのことに二人とも気付いている。

この小説を貫く悲しさの根本は、二人の不遇な環境・状況と同時に、
このアンバランスにあるように思う。
二人は夜にいる。けれど、片方が片方の太陽になったのだ。
闇夜を照らされた少女は救われた。

では、太陽になった少年は救われなかったのか?
そうじゃないだろう。彼だってきっと、少女が救われることで救われていた。
これは僕の希望。

しかし言い換えれば、どちらも救われないのだ。
そこには本当は太陽のような闇しかないのだから。
共感は孤独を和らぎこそすれ、根本的な解決を生まないのだから。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『秘密』

東野圭吾『秘密』感想。

まずあらすじ。Amazonより。
妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。その日から杉田家の切なく奇妙な“秘密”の生活が始まった。映画「秘密」の原作であり、98年度のベストミステリーとして話題をさらった長篇、ついに文庫化。

この小説は東野圭吾の「非リアル設定のリアリズム」を
味わうという点では優れていると思う。
『秘密』『変身』『パラレルワールド・ラブストーリー』は
東野圭吾の「意識」に関する3部作と言われている。
これらのような一つのSF的特殊設定に対し、
登場人物たちの心情をリアルに描くというのは、
よくある手法だが困難な手法で、著者の力量が如実に繁栄されるスタイルだと思う。
で、東野はこの点については成功していると思う。つまり、想像力がある。
あたかも実際にそういう事象が起こった家族を取材したかのよう。

最初にこの小説のコンセプトを友達から聞いたとき、
「セックスはどうするの?」とすぐに聞き返した。
そしてこの当たり前の疑問から東野は物語を作ったらしい。
小説の中でセックスは重要なウェイトを占め、夫と妻の関係性を何よりも強く反映する。
ここら辺の進め方は面白いと思う。
物語は若さを手に入れた妻の変質と夫の戸惑いを中心に描かれる。
新しい青春とそこから始まる人生を手に入れた妻はそれを謳歌していくが、
夫はそれに対して距離感を感じていく。
その距離感は互いの双方向性になる。(一番の原因はセックスレスだと僕は思う。)
その心理描写や夫が取る行動はとても理解できる。
情けないし倫理的に批判されるだろう行動もあるが、とても理解できる。
(女性の感想を読んでいると、夫への理解が少ない気がする。
 この話の感想は男女の差が大きい印象を受ける。)


しかし、この小説を僕は好いていない。
僕はこの小説で何も感動を得ることが出来ないから。
この小説にあるのは、リアリティだけなのだ。
ネットで感想を読むと、よく「ラストに感動した」とあるが、理解できない。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小説 『魔王』

伊坂幸太郎『魔王』を読む。

途中まで読みながら、何度も投げ出そうと思った。
主人公の二人の兄弟の描写が気に入らなかったからだ。

あたかも、憲法改正に反対することが正しいような。
憲法改正に賛成することが、熱狂の中で真実が見えていないような描写だ。
集団で同じことを考えることがあたかも悪いことかのような描写だ。

もし、このまま左翼マンセーで終わる小説ならクソだと思って読んでいた。
けれど、描写されている憲法論議は、左側が言いくるめられることが多く、
これだけに期待して読み進めた。つまり、こういうことなんじゃないかと。
この本のテーマは憲法改正ではない。
その証拠に、犬養が独裁者になっていったりすることはないし、
犬養に対してどちらかというと肯定的に描かれている。


「魔王」とは誰のことか?もちろん犬養のことではない。
大衆である。
そしてその中でも悪質とされているのが、
考えることによって他者と違うことに優越を覚える類の大衆だ。
そういう人間は考えることが自己目的化し、自己目的化したものは大抵形骸化するので、
思考の検索(書物やネットから)で終わってしまう。結局思索しないのだ。


恐らく伊坂幸太郎は護憲論者なのだろう。作家は主人公に自分の思想を投影するものだ。
しかし、彼の最も言いたい事は次の言葉に集約されている。
(ちなみにこれは小林よしのりの思想でもある。)
私は、憲法改正が必要だと認識している。憲法は改正すべきで、武力は持たなくてはならない。ただ、この日本が独立した一つの国として、確固たる意志と誇りを持つためには、自分の投票に対する意味と責任を理解すべきだ。逆に言えば、もし国民が国の未来を必死に考え、その上で、一切の武力を放棄し、無防備こそが最大の防御である、と方針を定めるのであれば、それも正しい選択だ。

伊坂は、憲法改正に賛成か、反対かということに重点を置いているのではない。
考えること、そして自らの行動の意味と責任を理解することを強調しているのだ。

彼は小説の中で憲法改正反対を訴えたいのではない。
人々が雰囲気で動き、それが大きな止められない流れとなることを危惧しているだけだ。


さて、彼の主張は正しい。
正しいが、あまりに議論が掘り下げられていないし、題材がおかしい。

第一に、戦後60年に渡り、日本を支配してきたのは左翼・サヨク思想である。
全体主義は、ナショナリズムと一致しない。必要条件でも十分条件でもない。
こんなことは常識も常識だし、伊坂も分かっているとは思うが、
彼の小説はここを誤解させる。
小説で描かれる日本人の狂気は、実際には存在しない。
(韓国や中国や欧米では存在している。)
「ナショナリズムが狂気を齎す」といった、今の日本では考えにくいことを言ってどうする?
こう言ったら、「考えにくい」という意見こそが危険なのだ、とでも言うのだろうか。


かつて、従軍慰安婦の強制連行にせよ、南京大虐殺にせよ、
疑問を呈するだけで大臣が罷免される時代があった。
今ではボロクソに言われてるゆとり教育が持て囃された時代があった。
北朝鮮は楽園で、拉致なんてもっての他と考えられた時代があった。

ムードだよ。左翼こそ、ムードで勢力を広げ、反論を封じ、
疑問を呈したものにを粛清してきた。
左翼・サヨクが進歩的で、知識人のマナーだと思われてきた。

それを覆してきたのは、保守派の地道な努力じゃないか。
ムードが世界を包んでも、それでも「自分の考えを信じて、対決して」きたのだ。
80年代後半以降は、左翼が保守派に論破され、世間に受け入れられていく歴史だった。
(それと同時に個人主義、環境主義、偏った平等主義、生命至上主義などの
 サヨクが勢力を伸ばしてきたのも事実だが。)


現在の日本に過激なナショナリズムなんてない。
それどころか、普通のナショナリズムさえ怪しい。
そんなものが人々にあるのなら、とっくに憲法改正されているだろう。
蔓延するサヨクに対する保守派の抵抗、これが現在の状況だよ。
保守派は押され気味。


第二に、憲法改正について行われている議論が、浅い。
左も右も、数十年前からある議論じゃないか…。
これがテーマではないと後書きで作者が言っている以上、少々は目を瞑るが、
それにしてもこのレベルの議論じゃあ、「考える」というテーマ自体が揺らいでしまう。
思考停止に見える。
ちなみに、憲法改正は段階的に行われる、とか、アンケートが仕組まれているとか、
もう、左翼の主張そのものだよ。
(というかそもそも、アンケートを操作するのは昔から左翼の専売特許である。
 ネットを調べたらたくさん例が出てくると思う。
 左翼のする「アンケート」批判は、自分にそのまま返ってくる。)


第三に、熱狂は悪ではないし、大多数が同じ意見を持つことも悪ではない。
そして、マジョリティーが正常で、
マイノリティーが熱狂しているという状況の方が現実にはずっと多い。
(憲法改正なんてその典型で、議論をじっくり見てみると良い。
 左の連中の思考停止ぶりが分かるだろう。)

ファシズムとか、全体主義とか、熱狂とかいう言葉は、マジョリティ批判に良く使われる。
これらの言葉が卑怯なのは、反論不可能だからだ。
しかし、「僕はこう考える」という人が集まって大きな動きとなるのは間違いではない。
それに対し、全体主義的とか言っても仕方ない。それは民主主義の批判に近い。
もちろん、マジョリティが間違うこともあるだろう。
(ちなみに、戦後間違いとされているものはほとんど左翼・サヨク政策じゃないか?)
しかし、その批判は、理屈でなされるべきなのだ。
「皆が同じ方向を向いているのが怖い感じがする」とかさ、
そんなことは一言で言えばどうでもいいんだよ。
往々にして「マジョリティであること」そのものへの批判であって、無意味なのだ。
異論を許す空気はもちろん必要だが、小説からはズレを感じる。
もし、皆が憲法改正に反対している状況でも、同じ主張をするのだろうか。


繰り返すが、人々が雰囲気で動くのを危惧するのは正しい。
しかし、そもそも大衆は雰囲気で動くのだ。
そんな中、それでも人々には常識があるし、理想だってあるのだ。
間違っても、
「マジョリティーは雰囲気で動いている人たち、
 マイノリティーはよく考えている人たち」といった見方はすべきではない。


恐らく、題材が憲法改正じゃなければもっと楽しめただろうな。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本 『下流志向2』

『下流志向』感想。


(2007/05/01)「下流志向1」の続きです。

著者の主張をまとめると次のようになる。
・経済至上主義が若年者に「原体験としての消費」を刷り込む。
・結果、時間性のある生産主体ではなく無時間性を特徴とする消費主体が形成される。
・消費主体は「快・不快」自体を硬貨として扱い、正当な等価交換を主張する。
・結果、小学1年生から「この授業は如何に自分のメリットとなるか」という視点で
 「勉強は何の役に立つのか?」などと質問してしまう。
・しかし、小学生はそもそも勉強の価値を知っていない。また、大人から説明も出来ない。
・学級崩壊は、小学生の不快表象であり、「努力的な」無気力である。
・労働においても消費主体が先立つと、「評価の低さ」ばかりが目立つ。
・「快・不快」との即時的な等価交換だけでは労働は成り立たない。
・このような消費行動によって自己選択的に勉強や労働から逃避した結果、
 学力が落ち、労働市場から疎外される。
・その上、その結果を好ましいものと考え、「自己決定の価値」を信じる。
・消費主体化した人々は学力と生産力の点から下流層へ転落する。
・下流層ほど、自己決定と自己責任を叫び、他者を排し、孤立化しやすい。
・上流層は時間性を持った生産主体であるため、
 相互扶助の価値を信じ、セーフティネットを整備する。
・各々の層は「消費主体・生産主体の価値観」を再生産し、階層は固定化する。


この本の特質は、主体性を生産主体と消費主体に分け、
その特徴を時間性の有無という点で定義づけたことにある。
社会学的な明らかな間違いもあったりするが
(例えば現在のニートは自分から望んでなった者の方が少ないと言われている)、
全体的な流れとしては正しいと思う。
簡単に言えば、現代の子どもは、小さい時から注文の多いクレーマーなのだ。
自分を得する何かとの交換でなければ束縛に耐えられない。
そして一番の問題は、失うこと、分からないこと、孤立すること、
そういったことを肯定的に受け入れてしまうことだ。
「正当な交換」という自己決定を愛してしまうことだ。


それにしても保守派的な意見だなあ。
社会学やってる人ってリベラルが多いけど、ザ・保守派じゃないか。
「学問の価値は学問を始める段階では分からない。
 しかし、それでも(だからこそ)学問を始める」という選択に価値を置いたり。、
生産主体は「ひとまず分からないけどやってみよう、何か変わるだろう」という選択が出来る。

一方の消費主体は主体の変化を描けない。(もしくは「努力的に」描かない。)
消費主体は、「最も少ない労働で、最も大きな利益を出す」ことを最高善と見做す。
ニートがライブドアの堀江を賞賛する心性だ。彼らにとっての賢い生き方。
自己決定・自己責任論、自分探しイデオロギーが、
捨て値で子どもたち、若者たちの未来を売り払う。
しかも本人達はそれを喜んで受け入れるという構造だ。

ここらの分析は82年生まれの若者としてとても理解できる。


ただ残念なのは、この本では現状の分析に終わって処方箋が示されていない。
消費主体ではなく生産主体として
子どもを立ち上げるのはどうすればいいのかということが書かれていない。
僕も分からない。
posted by りお at 09:00| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

作家 『村上春樹』?

東野圭吾の次ということで、村上春樹を読んだ。しばらく現代作家で小説慣れ期間。

読んだのは、以下の8冊。

『風の歌を聴け』(1979年6月)
『1973年のピンボール』(1980年3月)
『羊をめぐる冒険(上)(下)』(1982年8月)
『ノルウェイの森(上)(下)』(1987年9月)
『国境の南、太陽の西』(1992年10月)
『スプートニクの恋人』(1999年4月)
『海辺のカフカ(上)(下)』(2002年9月)
『アフターダーク』(2004年9月)

読んだ順番は年代順ではないのだが、
こう並べてみると村上春樹の辿った思考が見えてくる。
彼の持ち出すテーマは、作品によらず通底しているため、
感想は作品ごとではなくテーマごとに書いてみようと思う。

村上春樹の作品の流れを極めて大雑把にまとめておくと、

青春三部作『風の歌を聞け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』
テーマは青春と無関心(アパシー、デタッチメント)+喪失。
 ↓
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
過渡期。
 ↓
『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』『国境の南、太陽の西』
テーマは喪失と虚無。
 ↓
『ねじまき鳥クロニクル』
過渡期。
 ↓
オウム2部作『アンダーグラウンド』『約束された場所で―underground 2』
ノンフィクション。
 ↓
『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』
テーマは共感(シンパシー、コミットメント)。
 ↓
『アフターダーク』
過渡期。

繰り返すが物凄く大雑把だ。
文体や主人公の人称、そしてメタファーの強度という視点でも分類できる。

一番好きなのは、『海辺のカフカ』。
一番読みやすく完成されているのは、『ノルウェイの森』。
一番一般ウケしやすいと思うのは、『国境の南、太陽の西』。
ちなみに、ファンの中で人気が高いのは、
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や
『ねじまき鳥クロニクル』なのだけど、まだ読んでいない。

それにしても『ノルウェイの森』は大分前の作品なんだなぁ。
posted by りお at 02:02| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『明日、君がいない』

素晴らしい映画を観た。

『明日、君がいない』。

パンフレットのイントロダクションにはこうある。
 爽やかな風が吹きぬけ、木の葉が陽光にきらめきながらそよぐ。生徒たちの姿が、教室や廊下、グラウンドにあふれていく。いつもと同じ、ハイスクールの朝の光景。今日もいつもと変わらない平凡な1日を過ごすかに見えた6人の高校生たち。だが、ひとりひとりは、人に打ち明けられない悩みや問題を抱え、押し潰されそうになっていることが、次第に明らかになっていく。やがて、午後2時37分に、その悲劇は起きる。はたして、自ら命を絶とうと決意するのはだれなのか・・・。

これが単純な概略だ。自殺というエンディングが予め知らされた上で、
そこに至る過程を見る映画。


この映画について僕の尊敬する前田有一は以下のように述べている。
とても分かりやすい説明なので、少し長いが抜粋してみる。
(前略)

登場するのは主に6人の若者で、これがまたどいつもこいつも問題を抱えている連中ばかり。高額所得者の親を持つ兄妹は、しかし教育面でのプレッシャーに押しつぶされ気味。スポーツ万能でモテる少年は、一見勝ち組街道まっしぐらに見えるが、他人を平気で蹴落とすいじめっ子。

(中略)

そのほかもゲイだったり軽度の障害にコンプレックスを持っていたりと、いつ自殺してもおかしくないような危なげなティーンが次々と登場する。そして、当初明らかになるそうした悩み、問題点とは別の隠された一面をもつ人物も中にはいる。

ひとつのシークエンスは必ずこのうち誰かの目線で進行するが、ひょんな事から(たとえば廊下で別の誰かとすれ違うなど)突然スイッチし、別の人物のそれになったりする。ときには同時に時間軸もわずかにずれ、過去に戻ったりするのでめまぐるしい。しかもその合間には、彼らをインタビューした風の映像まで入る。

こうしたスピーディーな展開と、「いったい自殺するのは誰なのか」「どんな原因で、どんな方法で死ぬのか」という、一種の謎解きめいた興味によって緊張感は途切れることが無い。無意識のうち、すべてのシーンにそのヒントを探してしまう。みていてとにかく"面白い"。

ただ、こうした技法面はまだまだ荒っぽくもあり、しょせんは新人監督といえなくもない。しかし、この映画にはもうひとつ恐るべき点がある。それは、この映画の語るテーマについてだ。

そもそもムラーリ・K・タルリ監督がなぜこの話を考えたかといえば、長年の女友達が突然自殺したことにショックを受けたことに端を発する。その後、自身も自殺を決意するにいたったその経験を、彼は完璧にこの一本に叩き込んだ。私が最も高く評価するのはその点である。

(後略)

カンヌで絶賛されたこの映画の監督は、撮影開始当時19歳だった。
ただし、この映画は決して、「19歳だから撮ることができた、
若さゆえの感性」では決してない。
人は何故自殺するのかという重いテーマを、
友人の自殺を経験している監督が描くから心を揺さぶるのだ。
(上記抜粋で後略した自殺というテーマについては、
 エントリーを改め、自分の言葉で語りたい。)


観終わった後、切ないだとか、悲しいだとか、衝撃的だとか、
もちろんそういう感情もあるのだけれど、そうじゃない。
観客は映画を観ることで、
友人の自殺を止められないということがどういうことなのかを知る。
もしも友人が自殺したら自分が何を考えるかを知る。

たった一つの救いは、この映画が存在するというメタ的な事実だけだ。


数少ない僕の映画人生だけれども、ベスト1かもしれない。
心から素晴らしい。
posted by りお at 02:01| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『花とアリス』

『花とアリス』がすごくイイ!

世の中に素晴らしい映画はたくさんあるが、
「その中でDVDを買って家に置いておきたい」映画は少ない。
岩井俊二監督の『花とアリス』はそういう映画だ。

最初の5分間で映画の性格付けがなされる。
あ、こういう映画なのか、と分かる。
ほのぼのというのも違う、かわいいというのも違う、切ないというのもずれている、
けれどそこには、ティーンエイジが持つ危うい綺麗さが表現されている。
僕はこの5分間だけでこの映画を好きになってしまった。


こういう年代が僕にもあった。誰にでもあった。
恋に対する憧れとか、友達との間の軽い歪みとか、
それらに初めて接する戸惑いとか。
そういったものが敷き詰められて、主人公の二人を包んでいる。


ハートのエースのくだりで描かれる小さな奇跡や
三角関係の外側の物語(家族の話とか)の重みもでしゃばり過ぎず、
オシャレに花を添えている。
少年が最後に出す答えも、少女達が出す答えも、救いがある。
そしてその救い、というかハッピーエンドをすんなり受け入れさせてくれる。


友情と愛情どっちを取るの?なんてテーマが、世界の全てになってしまうような。
誰もが逡巡している。答えを出せない。
そんな年代の流す涙を嘘っぽくなく描いた岩井監督をとても評価したい。
原作があるらしいが、僕はこの映画の長所はストーリー以上に演出にあると思う。


蒼井優の純真無垢なイメージもいいが(『ハチミツとクローバー』のはぐのような)、
この映画の「不安定な時期の快活な少女」もいいなあ。こっちもピュアさは必要だけど。
posted by りお at 01:58| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『ストリングス 〜愛と絆の旅路〜』

『ストリングス 〜愛と絆の旅路〜』を観に行く。

久しぶりの六本木ヒルズ。落ち目だという噂があったが、
ゴールデンウィークということもあってか案外にぎわっていた。

この映画は、デンマークで作られた操り人形による人形劇である。
一体の人形に付き、4〜5人のプロの人形師がついて人形を動かし、
90分ほどの映画の撮影に23週間がかけられた。


この映画の面白い点は二つある。
一つは、人形劇のクオリティというものを知ることが出来ること。
人形劇は、子どもだけが楽しむものではなく、大人の鑑賞にも耐えると実感できる。
「生きているように見える」と言ってしまうのは簡単だが、
それ以上のものがあるからこそ、人形劇には価値がある。
生身の人間ではなく、人形だから生まれるエネルギーや純粋性がある。
造花が生身の花に優越する点があるように。

二つには、人形の糸をそのままCG処理せずそのまま残すことで、
糸を物語に必要な道具として用いたことである。
例えば、登場人物は自分の頭から伸びている糸を切断されると絶命する設定である。
映画はまず最初に現実の人形師たちを映し、彼らから伸びる糸を映す。
その糸を上から下に辿り、人形が映される。
つまり、この映画は「人形劇」であることを予め明示している。
糸は人形達にとってメタファーであると同時に、物理的な糸でもある。

このような糸は何を象徴するのだろうか。
「糸による束縛」は映画で何度も表現される。それは運命であり不自由である。
と同時に、愛し合う姿は糸が絡まりあう姿に、絶命は糸の切断に、
命の誕生は人形への糸の接続に擬えられる。

つまり、こういうことだ。
束縛こそが、人の生命力と同値であり、
社会や他人との連帯という不自由こそが、人の生きる意味である。
まさしく保守派的な思想で、とても共感できる。
不自由さと束縛は愛や絆であり、その切断は社会的な死を意味する。

では、ラストシーンはどうだろう?
僕はあのシーンでこの映画の主題がボケてしまったと思っているが、
様々な解釈が出来る。
一先ず僕はこう言おう。人間ではあのようなことは出来ない、と。
posted by りお at 01:57| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 『あるスキャンダルの覚え書き』『ゾディアック』『きみにしか聞こえない』

最近観た映画。

『あるスキャンダルの覚え書き』

映画にはいろんなジャンルがあるが、その一つに
『日常の中で少しずつズレが表面化していく系』がある。
そのような映画では、他のジャンルの映画に比べて人物の心情を追うことが重要だ。
『あるスキャンダルの覚え書き』では、二人の主人公のどちらにも感情移入できる。
ある人は老いたストーカーに、ある人は若い(少しおバカな)女教師に共感を覚え、
追う側に理解を示し、追われる側の恐怖を見守るだろう。

「他者を救っている」という優越感、しかも両者にそれが共有されている状況が、
一人の人間を追い詰めていく。
が、それと同時に、正当化を続ける追う側も、喪失の危険性を膨らましていく。
本当に依存しているのは、どちらかと言えば…。


『ゾディアック』

アメリカの連続殺人鬼、ゾディアック。
wikipediaにはこうある。
ゾディアック(Zodiac)は、アメリカ合衆国の連続殺人者。1968年から1974年のサンフランシスコで警察が確認できた被害者5名を殺害。現在も犯人不明のまま、事件は解決されていない。1990年代には、ニューヨークでこの事件を模倣した連続殺人が発生した。以後ゾディアックは連続殺人の代名詞にもなる。

ゾディアックは、暗号文を警察に送りつけ新聞に掲載させ、指紋を現場に残し、
報道番組に電話で生出演した。
典型的な劇場型犯罪であり、映画の前半は謎解きに費やされる。
当時の人間が怯えながら熱狂したように、映画館の観客にとってもスリリングで楽しい。
しかし僕達は事前情報で「未解決事件である」ことを知ってしまっているので、
最終的に捜査が行き詰ることを知っている。
映画としてはどうオチをつけるのかと思っていたら、
後半は事件を捜査する警察官や記者の人間模様に中心が移っていき、
やはり、捜査が進むスピードは鈍っていく。

けれど、まさにこの密度の低下こそが劇場型犯罪の行く末であって、
映画は正しい。僕達が映画内事件を退屈に思うように、
70年代のアメリカ人も退屈して、飽きてしまったのだ。
そこでは事件ではなく「事件の周辺事態」しか語るべき内容がない。

ちなみに映画では、犯人が誰かをほぼ断定する形で終わる。
これは素直に褒めたい。


『きみにしか聞こえない』

乙一原作小説の映画化。原作とは色々違う点あり。
公式サイトのストーリーの最初を抜粋。
 わたしは相原リョウ、両親と妹と横浜の高台に住んでいる。内気で友だちのいないわたしはケイタイも持っていない。でもある日、公園でおもちゃのケイタイを拾う。翌日、保健室で休んでいると着信音が鳴って、若い男の人の声が聞こえてきた! こうして、わたしとシンヤさんは、つながった。長野でおばあさまと暮らしているシンヤさんは、この春に高校を卒業して、今はリサイクルショップで働いている。すぐにわたしたちは、ケイタイがなくても〈電話〉できるようになる。

テレパシーのような形で会話できるようになった二人は恋心を募らせていく。
「私にはこの人しかいない」という思いは基本的に恋愛の中核となるが、
この二人の恋愛においては、「コミュニケーション可能な人間がこの人しかいない」という、
社会既定性を持っている。
片方には友達がおらず、片方は耳が聞こえない。
脳内テレパシーは「私はひとりだ」という思いを持つもの同士の、共依存を作り出す。

共依存の行き着く先は二つだ。
一つは、「世界にはこの人しか信じられる人がいない」と閉じる場合。
もう一つは、「この人は信じられる。だから世界はクソじゃないのかもしれない」と
開いていく場合。
共依存による信頼穣成が周囲の世界にも適応されること。
これこそが恋愛の効用の一つだろう。

脳内テレパシーは一時間の時差を持って行われる。
ここにはタイムパラドックスの生まれる余地があり、もちろん悲劇回避の物語が生まれる。
手話のシーンはちょっとクドさが残るが、「耳が聞こえない」「口がきけない」という設定は、
「タイムパラドックス物」と組み合わさり素晴らしい演出を生む。これは新しい。
posted by りお at 01:54| 映画・小説・作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。